戦前と戦後の連続性を甦らす、門脇朝秀翁と戦中派

平成29年6月26日(月)

先の通信では、
六月二十三日の糸満市摩文仁の丘における沖縄戦戦没者慰霊祭を観て、
心に湧き上がった思いを書かせていただいた。
それは、今、我が国が「甦らせるべき慰霊」とは
「国家という悠久の大義と結びついた慰霊」であるということだ。
そうすることによって、
国の戦いのなかで命を落とした同胞と
今生きて、彼らを思う我らは、
日本という悠久の大義のなかで同胞として一体となる。
その際、先の通信で、
戦場に赴いた大正生まれの戦中派は、何も戦場のことを語らない、と書いた。
しかし、これは戦中派に失礼であった。
「彼ら戦中派は、語っている」、と訂正したい。

彼ら戦中派は、語った。
しかし戦後の、
我が国を共産化しようとするコミンテルン戦略による大日本帝国に対する罵倒と、
このコミンテルンと結びついた我が国を占領したGHQ連合国最高司令部)による
WGIP、即ち、日本の戦争を悪とし有罪とする巧妙なる洗脳政策の成功によって、
国民に押しつけられた自虐意識の蔓延のなかで、
戦中派が語っていたことは、封印され、
あたかも沈黙しているように、知られるに至らなかっただけだ。
そして、
各々の戦場から生還して語っていた戦中派は、
いつの間にか、戦後七十二年を経過した現在、
ほとんど、戦場で斃れた戦友のところに逝ってしまっている。
従って、現在の我々には、
その戦中派が我らに語ったことを甦らせる使命がある。
それ故、
私の接した戦中派の方々と、
先の通信で紹介した終戦まで七年近く北支と南支を転戦した
作家の伊藤桂一さんの断想の記をさらに紹介したい。

(1)嗚呼、門脇朝秀翁、
門脇朝秀翁が、平成二十九年六月十三日午前九時四十分、百四歳で亡くなった。
亡くなる前日の十二日の夕刻、蕨市内の病院にお見舞いしたところ、
昏睡しておられた。
その先生に、
  門脇先生、先に旅立たれている奥様
  台湾の同志や満州の同志と
  もうすぐ会えますよ、
ありがとうございました。
と、腹の底から湧き上がる寂しさのなかで、
心の中で申し上げた。
そして、翌日十三日の昼過ぎ、
千葉の茂原の雨にけぶる浅緑の田園と森に囲まれた
海軍沖縄根拠地隊司令官大田 實海軍中将の生家の横の慰霊碑の前で
昭和二十年六月十三日に、「沖縄県民、斯く戦えり」との決別電を発して、
沖縄小禄の地下海軍壕の司令官室で自決した
大田 實海軍中将の慰霊祭に参加している時、
門脇翁逝去の報に接した。

門脇翁は、満州の元特務機関員、
終戦直後に満州から数十万の邦人が着の身着のまま引き上げるに際し、
遼東半島南端の大連港において、奉天以北の多数の邦人が
ソビエト軍のために足止めされ飢餓状態に陥りつつあるとの報に接し、
帰国せず、直ちに北上して奉天にいたり、
そこにいたアメリカ軍司令官に直談判して実情を訴え、
ソビエトの毒牙から多数の同胞を救い出して無事帰国させた方である。
あの緊急時における、この胆力、この自らの生死を超えた無私の決断と行動、
常人のできることではない。
そして、戦後は、「あけぼの」と題された憂国の機関誌を自ら発行され続けておられた。

門脇翁が百歳の頃、
まず台北の同志と懇談し、
それから共に何日もかけて台湾東海岸を南下した。
ある村の神社の鳥居の下に座った門脇翁は、
私に言った。 
  この鳥居が、
  ここに残っているということは、
  この村の村長が、
  蒋介石による白色テロ時代に、
  命をかけた、
  ということを示している。
門脇翁の行くところ、台湾の戦前からの知己、同志がおられた。
次の村では、
二人の高砂族の戦友を訪問された。
その一人の方は門脇翁に抱きついて泣いた。
彼は、門脇翁に会った瞬間に、日本兵に戻っていた。
共に食事をした彼は、
耳は聞こえにくかったが眼光は凄みがあり鋭かった。
高砂族の兵隊は、夜眼がきいた。それ故、
この老人とジャングルで出会って戦ったら殺されると思った。
この方は、インドオネシアのモロタイ島から
一九七四年(昭和四十九年)に帰国した台湾高砂義勇隊の兵士
中村輝夫(日本名)さんの上官で出身の村も同じであった。
そこで私が、この方に、
台湾に帰ってきた中村さんに会ったかと尋ねると、
  会わない、脱走兵とは会わない。
  あいつは脱走兵だった。
と断固として日本語で答えた。
この方は、現在も、日本兵そのものだった。
次に訪ねた方も日本軍兵士であったが、体が弱くなって椅子に座っていた。
門脇翁が、
  この勲章は、貴方がもつべき勲章です
と言って自宅から持参した勲章を渡すと、
その方は、額の上に勲章を押し戴き、
天皇陛下に向かって深く頭を下げて、
ありがとうございます
と言って泣いた。

門脇翁と台湾最南地域の潮州に滞在したとき、
翁は、
  ここに住んで、
  ここで死にたいよ、と言われた。

本年になって、ご無沙汰を重ねていたので、
門脇先生、ぼつぼつ台湾に行きましょうか、
と、近いうちにお誘いしよう、と思っていた。
もう一度、台湾に行くまでは、亡くなられるはずはないと思いこんでいたからだ。
そのようなときに、門脇先生、ご入院との報に接したのだ。

門脇朝秀翁は、
戦中戦後一貫して尊皇の志を堅持され、いつも、
  シナの中国共産党政権が崩壊するのを、
  俺のこの目で見る
と言っておられた。
しかし、帰天された。
よって、我らが、
中国共産党独裁国家の崩壊を、
この目で見ようではないか!
門脇翁も天から見られるはずだ。

台湾と満州と朝鮮と支那大陸の実相を深く知り、
そこに多くの戦前からの知己をもつ
真の日本人、
門脇朝秀翁が
娘さん達に見送られて、静かに、多くの知己のもとに戻っていかれた。

門脇翁との、
台北と台湾東海岸そして高砂族の住む山岳地帯訪問の情景は、
私と共に尖閣諸島魚釣島に上陸してその映像を撮った、
稲川和男さんによって映像に収められている。
稲川さんは、
送料等の実費をご負担願えれば、
その映像を希望者にお送りすると思うので、
是非、見ていただきたく、次に連絡されたい。
  映像教育研究会 稲川和男
 〒104-0041 東京都中央区新富1-13-24
LMベルコート603 ℡03 3553 9181 FAXとも


(2)「大和心のつどひ」会員のエピソード
大阪に、畏友の吉村伊平氏が主催する
月一回の勉強会「大和心のつどひ」がある。
そのメンバーで、体調が許せばときどき出席される三人の戦中派の方がおられる。
かつて兵隊は、
大東亜戦争の激戦地の赤道下の
ガダルカナル島を「餓島(ガ島)」と呼び
西のブーゲンビル島を「墓島(ボ島)」と呼んだ。
そして門脇翁が、よく言っていた。
兵隊にとっては、
地獄のビルマ、天国のジャワ、生きて帰れぬニューギニアだ、と。
この餓島と墓島は、生きて帰れぬニューギニアと同地域の激戦の島で、
まさに日本兵の飢餓と墓の島だった。

「大和心のつどひ」に来られるお一人は、
このブーゲンビル島(墓島)の中部山岳地帯シオミパイヤで戦って生還した
不死身の中尉と言われた方(96歳)である。体に銃弾が貫通した数個の痕がある。
この中尉殿は、生き残ったもう一人の戦友(故人)とともに
「シオミパイヤの苦闘」と題する戦記を書かれた。
私は、この小冊子を、
堺の私の近所出身の陸上自衛隊の少尉(三等陸尉)に渡すと、
彼女は、非常に参考になるので仲間で輪読したと言っていた。
また、この不死身の中尉殿は、
近くに駐屯する自衛隊の匍匐前進の姿勢がなっていない、
あれでは山岳地帯で、上から狙い撃ちされると連隊長に進言し、
敵から眼を決して離さない実戦的匍匐前進は如何にあるべきかを語っている。

他の二人の戦中派は、
二人ともシベリアに抑留された下士官と石頭予備士官学校生徒である。
二人は、94歳と92歳で、
下士官は、今でも二泊三日のドライブ旅行を自ら運転して完遂し、
朝からビールを飲む。
予備士官学校生徒は、今も毎年、
シベリアの戦友の遺骨収集の作業に参加している。
彼は、昭和二十年八月十五日の、
満州関東軍石頭予備士官学校生徒八百五十人の内七百五十人が戦死する、
ソビエト軍との磨刀石の戦いに参加して生き残った。
この戦いは、怒濤の如きソビエト軍戦車に向かって
士官候補生が爆弾を抱えて飛び込む、ソビエト軍が「陸の特攻」と恐れた戦いで、
今でもロシアで語り伝えられている。
それ故、昨年も遺骨収集にシベリアに行っていた彼は、
「陸の特攻」の生き残りの勇者が来ているとしてロシアのマスコミに報道されている。
この予備士官殿は、
近年、スラバヤ沖海戦で日本軍に撃沈されたイギリス軍艦の乗組員を救助した
日本海駆逐艦「雷」の工藤俊作艦長が賞賛されたとき、
一人、悔し涙をにじませながら私に言った。
  
  何故、敵を救助した奴だけが賞賛されるんだ。
  俺たちは敵を殺せと命じられ、
  それが大義だと信じ、死力を尽くして敵を殺し、
  ほとんどの戦友は戦死したんだ。
  何故、命令通り任務を尽くして敵を殺して戦死した戦友が忘れられ、
  敵を救助した奴がだけが褒められるんだ。

この三人の共通点は酒を飲まれることである。
先年、「大和心のつどひ」が終わってからの宴会で
このお三人が話しているのを横で聞いていた。
94歳と92歳の下士官と士官候補生は、
こもごも言った。
「僕は、この頃、女と遊べんようになった」
「そうか、実は、僕もなんだよ」
その時、
横で聞いていた96歳の中尉殿が言った。
「何だ、駄目じゃないか、若いのに」
九十歳代の陸軍将兵三人のこの会話を聞いて、思った、
やっぱり日本軍は、
とてつもなく強かったんだ、と。

(3)伊藤桂一さんの戦記より
作家の伊藤桂一さんが、
終戦後に日本の港(佐世保)に帰還したときの感慨は先の時事通信で述べた。
それ故、次に伊藤さんの著書
「草の海・・・戦旅断想」と「兵隊達の陸軍史」から
シナ大陸の戦争の実態を紹介したい。
次の二つのエピソードを知れば、
戦争とシナの民衆の置かれた立場、
そして、彼らが日本軍を如何に見ていたかが分かる。

昭和二十年八月十五日の玉音放送の日で、日本軍がなくなったのではない。
昨日同様、約七十万の完全武装で精強な日本軍が存在した。以下、伊藤さんの文。

終戦後の八月十七日、
まだ武装解除されていない槍兵団の一部が、
駐屯地から北上を続けていたとき、新四軍(共産軍)の部隊に包囲された。
向こうは、
「武器を捨てよ、そうすれば我々が貴隊を保護案内する」と放送してきた。
こちらはきかない。
先発隊長は「道をあけろ、あけねば武力で通る」と応じ、
結局、交戦撃退して行軍し、とある町に着いた。
少々殺気立っている兵隊はその町で物品をかすめ食物を無断で頂戴していると、
いく分当惑して寄ってきた中国人がいったという。
 「あんたらはもう戦争に敗けているのだ。
  この町には中国軍が警備についている。
  いつまでも勝っている気分でいられちゃ困ります」
その態度が鷹揚で、
つい先ほど新四軍を撃退して小銃七十挺をろ獲した兵隊たちも、
さすがにシュンとして言葉がなかった。

伊藤さんは、連隊本部の糧まつ班にいて部隊の食糧を付近の中国人から
中国儲備(ちょび)銀行券で購入する仕事をしていた。
八月十五日の昼過ぎ、
兵舎を出て草むらの間の道をあるいていると、
連隊本部に命令受領に行った軍曹とすれ違った。その時軍曹は、
「おい戦争に敗けたぞ。いま、天皇詔勅が下った。
 もう戦争は終わりだ。敗けて終わったんだ」
と言い残して、急ぎ足で去った。

私は軍曹の行ってしまったあと、
しばらく草の道に立って、鳴きしるキリギリスの声をきいていたが、
そのとき、どうゆうわけか、
平素昵懇になっていた楊(ヤン)という中国人を訪ねたくなった。
楊は、野菜のことでは私がいちばん世話になった商人で六十くらいだが人柄も良く気楽に付き合っていたのである・・・
「楊さん、日本は敗けました」
と、ごくまじめにいった。楊は、
「敗けたですねえ」
といって、明らかに同情するように私をみたが、
そのほかは平常の楊となんら変わるとろはない。
やがて楊は私に、
もし困ったことがあって隊を逃げるようなときは
自分に頼ってほしい、できるだけのことはする、といった。
そのあと楊は、
拳銃を一挺と弾丸を少々都合してもらえまいか、
と私に頼むのである。
 「日本軍が敗けて軍隊がいなくなると、
  すぐに土賊が出てきます。
  今度は自分で守らなければならないのです」
楊はそれを、事務的に解説するようにいった・・・
私は拳銃を都合することを約し、楊に西瓜をよばれて帰った。

最後に、伊藤さんが、
今のように、韓国が、日本の謝罪と賠償金の支払いを執拗に蒸し返す
いわゆる「従軍慰安婦問題」が
吉田某と朝日新聞によって捏造される以前に、
戦場の体験者として書いた「娼婦と兵隊」という項の一文を紹介する。

戦場の、死生の間の、ゆるされた余白の時間に、
異性と接触するくらい、刺激に富む現実はない・・・。
そういう状態で女を抱くことは、
兵隊にとっては、その度毎に美しい奇蹟としてうけとられた。
何故なら、明日になれば、
自分は死んでしまっているかもわからないからである・・・。
もう一つ、兵隊が娼婦に近親感をもつのは、
兵隊も娼婦も、その位置も価値も、五十歩百歩の同次元に生きている、
という一種の一体感である・・・。
・・・大敗退や玉砕のなかに、名もなき多くの慰安婦のまじっていることを、
あまり人はいわない。
慰安婦は、従軍看護婦のように歌にも歌われないし、
戦史にも戦話にも出てこない。
せいぜい、何パーセントかの兵隊の胸のなかに(つまり伊藤さんの胸のなかに)、
きわめて強烈に印象をとどめさせているのだが、
これで以て冥するよりほか、仕方がないことかもしれない。
・・・私自身の考えでいえば、
日本の帝国陸軍大敗戦のなかに、
戦場慰安婦のまじった部分だけが、
戦争のなかの「美」であったような気がする。
香り高く価値多き慰安婦たちに対して、
私は、衷心から敬礼せざるを得ないのである。

 

西村眞悟の時事通信より。