憲法無効と国軍の創設と西郷南洲

平成29年11月23日(木)

この度、
十七日に茨城県の日立、
十九日に愛媛県の松山を訪れて、
我が国に迫る国家存亡に関わる懸案問題と、
それを克服する為の戦略論としての日本国憲法無効論の話をさせていただいた。
その中間の十八日は、
滋賀県の琵琶湖畔で中学高校の同窓会があった。
久しぶりに会う十代の頃の友と恩師、
話は尽きなかった。
本通信では、
日立と松山の集会で語らせていただいたこと、
松山の護国神社に祀られている松山歩兵第二十二連隊のことを記したい。
日立から松山、
離れているが、お会いした方々の国を思う真心は一つだ。

ところで、国会が開会されているが、
夜明け前の闇がいちばん暗い、
という通りだ。
そのひときわ、暗い闇が国会であり、
その国会内の住民の頭の中がいちばんの課題。
既に、許しがたい迷妄である。
ここまでくれば、もはや利敵行為の域に入っている。
即ち、内なる国難コミンテルンだ。
そして、この内なる国難を、
今までよりも、よく見えるように、
選別し囲い込んだのが、
この度の総選挙の功績といえる。

私は、伊予の松山に行けば、
松山歩兵第二十二連隊の祀られている護国神社に参ることにしている。
そうするのは、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」のお陰だ。
坂の上の雲」は、
日露戦争を勝ち抜くために総力を傾ける明治維新後の日本における、
伊予松山藩出身の三人の男を主人公にしている。
銃砲弾うなる陸海のロシア軍との戦場に赴き、
日本騎兵を率いてコサック騎兵を打ち破り陸軍大将となった兄の秋山好古
バルチック艦隊との海戦を勝利に導く作戦を立案した連合艦隊参謀の海軍中将、
弟の秋山真之の兄弟と、
真之と同級生で近代文学の開花期を牽引した俳人正岡子規の三人である。
しかし、司馬遼太郎さんは、松山のこの三人に注目しながら、
松山を郷里とする歩兵第二十二連隊のことに触れていないのだ。
その為に、松山市は観光客を誘う「坂の上の雲の街」という旗を各所に立てているが、
この「坂の上の雲」のお陰で伊予松山の人々さえ二十二連隊のことを知らない。
司馬さんの「坂の上の雲」が第二十二連隊を隠しているからだ。
しかし、松山出身者の日露戦争を描きながら、
大量の血を流して国家に貢献した
松山を根拠地とする歩兵第二十二連隊を無視することは許されない。
司馬遼太郎さんは、
旅順要塞攻防戦の日本軍の第三軍司令官乃木希典大将を愚将とし、
乃木司令部が敢行した歩兵の肉弾突撃戦法を「兵の屠殺」と冷笑する。
まさに松山歩兵第二十二連隊こそ、司馬さんが冷笑する歩兵の突撃を繰り返し、
「肉弾連隊」と呼ばれた連隊だった。
だから、司馬さんは、二十二連隊を無視したのか。
そうであれば、如何にフィクションといえども、
許せない歴史の改ざんである。
何故なら、
敵のロシア軍も、
観戦武官のイギリス軍のイアン・ハミルトン中将も、
近代要塞である旅順要塞攻防戦の勝敗を決定づけたものは、
日本歩兵の突撃であるとしているからだ。

もし、旅順要塞が陥落しなければ、
日露戦争において満州の陸軍は崩壊して我が国は敗北した。
そうなれば、我々は、日本人として生まれていなかったであろう。
従って、松山に来て、
旅順要塞に突撃を繰り返した松山歩兵第二十二連隊の
英霊と武勲を忘れてはならないのだ。
だから、私は、何時も、松山の護国神社に参拝する。
なお、
歩兵第二十二連隊は、
日露戦争後の大正・昭和も戦い続けた。
連隊は、シベリア出兵、満州、上海、支那事変、
そして、最後は沖縄に転戦し、
昭和二十年六月、
沖縄南部の戦闘において
連隊長が戦死した後も戦い続け、遂に連隊旗を奉焼して全員玉砕し、
明治十九年八月からの連隊の武勲と苦闘の歴史を閉じた。
沖縄から生きて松山に帰還した連隊の兵士はいない。

我が国の全土には、それぞれの郷里の連隊があった。
その連隊の戦いの歴史を知ることが、
歴史の回復であり、
国家の回復だと思う。
そのために、
東京に明治天皇が創建された靖国神社があり、
各地に護国神社がある。


さて、
我が国家の再興は実践期に入っている。
この実践期とは、
稽古して次に実行しよう、という実践期ではなく、
予期しようが、しまいが、有無を言わさず襲ってきて、
それを実践しなけれ国が滅亡させられるという意味の「実践期」である。
では、その実践とは何か。
それは、具体的に、
「軍隊の運用」と「日本国憲法無効宣言」である。

丁度、四十年前の一九七七年(昭和五十二年)の九月から十一月、
我が日本は、福田赳夫内閣の際、
現在のモデルケースともいえる三つの事例に遭遇している。

その三つとは、
①九月十九日、北朝鮮による久米裕さん拉致事件能登半島の宇出津事件)
 十一月十五日、北朝鮮による横田めぐみさん拉致事件(新潟)
②九月二十八日、日航ダッカハイジャック事件・・・日本赤軍
 十月十三日、ルフトハンザ機ハイジャック事件・・・西ドイツ赤軍
NATO(主導は西ドイツのシュミット首相)の「二重の決断」
 NATOソ連の中距離核弾頭ミサイル「SS20」の実戦配備に対して
 中距離核弾頭ミサイル「パーシングⅡ」を実戦配備して
 軍備増強と軍縮圧力を同時にソ連に突きつけた。
 これによって、ソ連は、SS20を撤去する。

我が国政治は、以上三つのうち、
①と③は、国民が知らないのを奇貨として封印して放置し、
②は、「超法規的措置」として日本赤軍の要求を全面的に受け入れ、
そして、三つとも、喉元過ぎれば忘れて、四十年後の現在に至っている。

しかし、これら三つの課題は、
第一に「国民の救出」、
第二に「テロとの戦い
第三に「核の抑止」

という、現在の我が国にのしかかっている国家の存亡に関わる課題である。
つまり、この課題に関して四十年前に不作為を決め込んだ「ツケ」が
今我が国に突きつけられている。

我が国政府、当時の福田赳夫内閣は、
十三歳の横田めぐみちゃんが北朝鮮に拉致されたまさにその時に、
それは、北朝鮮の仕業であることを、知っていたのだ!

では何故、
我が国は四十年前にこれら三つの課題に関して、不作為を決め込んだのか?
それは、この課題を解決するための力、「実力」がなかったからだ。
即ち、「国軍の欠落」だ。
そして、この「欠落」は、
おしつけられた憲法、別の名を、マッカーサー憲法
によってもたらされた。
しかし、四十年後の現在、
我が国は、この三つの課題つまり国難を克服しなければならない。
従って、今、我が国において、
「国軍の回復と運用」
こそが、死活的課題である。

そこで尋ねる。
現実論として、
日本国憲法」の「改正」は、いったい、間に合うのか?
間に合わないとき、
日本国憲法」を今までのように守って、国民を殺し、国を滅亡させるのか?
さらに尋ねる。
無効なものを「改正」してどうする。
毒の樹の枝を換えても、毒の樹は毒の樹だ。

結論、間に合わない!
既に、東アジアは、
これから何が起こるか分からない航路に入っている。
よって、
我らは、軍隊を運用して国難に直ちに対処してそれを克服すべき危機に直面したとき、
かつ、
もはや「憲法」を口実にして四十年前の不作為を繰り返せば国が滅ぶとき、
万策尽きた後の、最後の一手として!
救国の実践論としての

日本国憲法無効宣言」

を、特に、総理大臣は覚悟しておくべきである。

つまり、桎梏の「ゴルディアスの結び目」(日本国憲法)を
かつて、アレキサンダーが斬ったように、
現在において、我が国総理大臣が斬り、
直ちに軍隊(自衛隊)を動かすのである。
To Cut The Gordian Knot!

これが即ち、我が国が、
「日本を取り戻す」ことであり「戦後体制からの脱却する」ことである。
そして、「取り戻された日本」こそが、
命にかえて守るべき日本であり、
この日本こそが、
国軍の創設と運用の前提である。
この前提なくして我が国の国軍はあり得ない。

では、命にかえて守るべき日本とは何か。
それは、英霊が命にかえて守った日本である。
それ故、歴史の回復は死活的に重要だ。
そのために、我らは、
戦前戦後の連続性を取り戻し、
現在と明治維新と太古との連続性を確認しなければならない。
よって、まず、
戦後教育が触れようとしなかった
天皇詔書と御製とお言葉を回復しなければならない。
特に、戦後、
天皇人間宣言」というレッテルを貼って戦後教育が
その真意即ち大御心(おおみこころ)を封印した、
昭和天皇が敗戦後に初めて迎えた元旦、
昭和二十一年一月一日の新年に発せられた
「新日本建設の詔書」を拝読し、
昭和天皇が、
戦後の日本の国家目標と国民精神を
明治天皇の掲げられた明治維新の精神、
つまり、五箇条の御誓文にあり
と宣言されていることに気付くべきである。
即ち、王政復古の大号令によって始められた明治維新と現在は
切断されることなく連続している。

次に、現在の日本人から誇りと使命感を奪うために
日本国憲法」と「東京裁判」によって隠された
大東亜戦争の開戦目的が、
次の昭和十六年十二月八日の帝国政府声明の通り、
アジアの解放!
であったことを深く認識しなければならない(安濃豊著「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった、帝国政府声明の発掘」展転社)。

今次帝国が南方地域に対して、
新たに行動を起こすのやむをえざるに至る。
なんらその住民に対して敵意を有するものにあらず。
只米英の暴政を排除して、
東亜を明朗本然の姿に復し、
相携えて共栄の楽しみを分かたんと祈念するに外ならず。

最後に、
明治の勲章をつけた維新の元勲たちの名が全て忘れられても、
日本人が日本人である限り忘れられない
西郷南洲とは何か。
西郷は、
廃藩置県という明治維新最大の変革を為した改革者であるが、
何の為に「若殿ばら」と、城山に死にに行ったのか。
その西郷は、
最後まで、橋本左内の手紙を肌身離さず持っていた。
無意味に持っていたのではない。
橋本左内は、
「器械芸術(文明)彼(西洋)に取り、仁義忠義我に存す」
という信念の英傑であり、
若くして井伊直弼の為に斬首された。
西郷南洲は、
改革者であるが故に日本にが如何に近代化しようとも、
橋本左内の言う「仁義忠義我に存す」為に死んだのだ。
つまり、西郷は、楠木正成と同じように、
「士魂」を断じて我が国に残すために戦死した、
と、私は思う。

この頃の、我が国には、
改革、改革がはやり、その者たちは、期せずして、
よく、「リセット」という言葉を使って国民に改革を訴える。
その者たちには、歴史性がない、
まるでコンピューターを動かすように我が国の改革を言っている。

しかし、西郷は、
改革は手段であり、
目的は「溌剌たる士魂」を残すことだと、
自らの戦死を以て現在の我々に突きつけ続けている。
従って、西郷こそ、
現在の日本の指針を指し示してくれているのだ。

次に、江藤淳氏が、
著書「南洲残影」の最後に
西郷の首を受け取った山形有朋の情景を記した一文を以て本稿を終える。

山形参軍は、
砂だらけのその首を清水で清めさせ、
両手を差しの得てこれを受け取り、
各旅団長を顧みていった。
「何という立派な死様だ。
日頃の温和な容貌と少しも変わっていない。
これが二百余日のあいだ、
一日として吾輩の心を安んぜしめなかった人の顔だろうか」

このとき実は山形は、
自裁せず戦死した西郷南洲という強烈な思想と対決していたのである。
陽明学でもない、
敬天愛人」ですらない、
国粋主義でも、
拝外思想でもない、
それらをすべて超えながら、
日本人の心情を深く揺り動かして止まない
西郷南洲」という思想。
マルクス主義アナーキズムもそのあらゆる変種も、
近代化論もポストモダニズムも、
日本人は、
かつて「西郷南洲」以上に強力な思想を
一度も持ったことがなかった。

 

 

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