「仁徳天皇陵が我らに伝える尊いもの」

平成29年12月18日(月)

明治維新百五十年にあたり、我が郷里の堺では、
仁徳天皇の御陵を初めとする古墳群の、世界遺産登録に期待がふくらんでいる。
その期待の内容は、ほとんどが観光客の増加による収入増加である。
地元大阪の知事などは、どういう頭をしているのか、
仁徳天皇の御陵にネオンサインをつけてライトアップし、
御陵内にビアガーデンを造って客を呼び込もうと発言したこともある。
この風潮に対して、私は、
我が国黎明期の世界に誇る統治思想を表明した
仁徳天皇の御陵としての精神的価値を見直し、
さらに、その御陵を拝して、
仁徳天皇を十六代として今上陛下が百二十五代であるという
我が国の万世一系天皇を戴く国家としての姿、
即ち國體をもっと尊いものと自覚すべしと思い、地元紙に寄稿した。
次は、その寄稿文をもとにしてさらに詳しく述べた一文である。
ご笑覧頂こうと思い、掲載させて頂く。


大阪府堺市の中心部の丘にある世界最大の前方後円墳である仁徳天皇陵を、
周辺の人々は親しく御陵さんと呼んできた。
この御陵さんを南北から囲うように、
仁徳天皇の二人の皇子である履中天皇反正天皇の御陵があり、
遙か南の泉佐野市上之郷にある茅渟の宮は、
同じく仁徳天皇の皇子である允恭天皇が恋して通った
衣通姫(そとおりひめ)の住まいである。
衣通姫は、その美しさが衣を通り抜けて輝いていたと言われる
記紀に伝承されている美しい女性である。
 
このように概観すれば、大阪の堺泉州路は、
神話の世界とつながる黎明期の我が国の風土をたたえているといえる。
そこで、この我が国の黎明期の古墳群を、
単に観光客を集めるという功利的なエコノミックアニマル的観点ではなく、
仁徳天皇に注目して、
世界政治思想史上における奇跡を生み出した
尊い天皇の由緒ある丘という視点から見つめ直してみたい。

仁徳天皇が、
御陵の北十キロのところにある高津の高台に登られて、
民のかまどから炊煙が昇っていないのを眺められ、
三年間、課税を停止された仁政の故事は、戦前は小学校でも教えられた。
即ち、「百姓の窮乏を察し群臣に下し給へる詔」である。
しかし、注目すべきは、
その課税停止から三年を経て、天皇が再び高台に登られたときのことだ。
この時、民のかまどから炊煙が昇っているのを眺められた天皇は、
「朕既に富めり」(私は豊かになった)と言われた。
ところが、側にいる皇后からみれば、
天皇は、三年間の税収なしで着物を新調できず皇居も修理できなかったので、
ボロボロの着物を着て、雨が漏り風が通り抜る皇居に住まわれていた。
それ故、皇后が尋ねられた。
「あなたはボロボロの着物を着て廃屋に住んでいるのに、
何故、豊かになったのですか」と。これに対して、
天皇は、
「私は民の為にある、それ故、民が貧しければ、則ち私も貧しい、
民が豊かになれば、則ち私も豊かなのだ」
と答えられた(百姓の富めるを喜び給ふの詔)。
この天皇の言葉は、
実は、世界政治思想史の奇跡とも言うべき言葉であり、
天皇のおられる我が日本にしか現れない言葉だといえる。
ここにあるのは、天皇と民の、
支配者と被支配者の関係ではなく、
自他の区別がない一つの家族のような関係である。
西洋史を眺めれば、
この仁徳天皇の日本的特異性が分かる。
西洋においては、主権在民、つまり、君主ではなく民が主であるという考えは、
十八世紀の末になって、フランス人権宣言に現れたものであり、
それを彼らは、コペルニクス的転換と呼んでいる。
しかし、我が国においては、
第十六代の仁徳天皇が既に表明されているのである。
つまり、この考えかた(思想)は、
我が国においては天皇の当然の考え、
即ち、神武天皇創業の初めからのものである。
実は、
この天皇と民の、他国にみられない関係こそ、
明治初期に大日本帝国憲法を起草した井上毅が、
古事記日本書紀そして万葉集などの古典研究に没頭して探求した
我が国の統治形態の特色である。

即ち、我が国は「天皇のしらす国」なのだ。

その「しらす」とは、
自分以外の物と我とが一つになって自他の区別がなくなって
一つに溶けこんでしまうこと、である。
これは、西洋思想にいう、
一国の中で主権が君主にあるのか民にあるのかを決定する「主権在民」でもない。
主権在民とは、それ以前の、
主権を有する君主が土地と人民を自分の私有物として領有支配することに対して、
それを逆転し、
主権は君主にあるのではなく民にあるとしただけのことであるからだ。
これは、君主と民は、絶対的に分離された関係であることが前提になっており、
我が国の如く天皇と民が一つに溶けこんでしまうという関係ではない。
従って、井上毅は、大日本帝国憲法のなかで、
「主権」という言葉を全く使っていない。
 
アメリカ大統領のJ・F・ケネディは、
内村鑑三の「代表的日本人」を読んで、
米沢藩上杉鷹山が、
フランス人権宣言の以前に、
「人民の為に君主があり、君主のために人民があるのではない」とした
「伝国の辞」を書いたことを絶賛したが、
上杉鷹山は、仁徳天皇によって表明されている
我が国太古からの統治思想を表明しただけである。
 
さて、仁徳天皇は、以上のような「免税」だけをされたのではない。
仁徳天皇は、大阪平野に流れ込んで洪水を繰り返す河川を、
速やかに海に流し、また、海からの逆流を防いで
大阪平野を洪水のない豊かな穀倉地帯とした。
「難波の堀江を開鑿し給ふの詔」である。
そして、この大土木工事が現在の大阪の基盤となっている。
そこで、
この仁徳天皇の「免税」と「大土木工事」を総合して判断すれば、
これは何か。
これは、現在の「ケインズ政策」そのものではないか。
免税とは人民の可処分所得の増大策であり、
大土木工事とは総需要の増大策だ。
これによって、古代の大阪は、現在に至る肥沃な繁栄の平野となった。
西郷南洲は、遺訓のなかで、
「租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也」
と述べているが、
これも上杉鷹山と同じように、
仁徳天皇の仁政の故事から学んだ識見であろう。
以上の通り、
仁徳天皇御陵を観光客を呼ぶ「遺産」とみるのではなく、
ありがたい
天皇のしらす国」
である日本の黎明期において発せられた、
現在に至る為政の誇るべき伝統を示す尊い御陵として仰ぎ見るべきなのだ。

仁徳天皇の、
民が富めれば自分も富み、
民が貧しければ自分も貧しいと言われたことは、
天皇は民と一体であり苦楽をともにする関係だということに外ならない。
そして、この太古に表明された民と苦楽を共にするという伝統は、
現在の我が国に脈々と生きている。
明治天皇は、日露戦争の際、
皇居に暖房を入れられず、食事も兵隊が戦地で食べる質素なものにされた。
側の者が、お体にさわるのでせめて暖房を入れていただきたいと言うと、
明治天皇は、
兵は極寒の満州で戦っておる、
と言われて暖房をお許しにならなかった。
昭和天皇は、
連日の東京大空襲の最中においても、
断固として東京に留まられて
松代の地下壕に疎開されなかった。
今上陛下は皇后陛下と共に、東日本大震災に際し、
皇居の暖房と燈火を消されて生活され、
幾度も幾度も被災地を廻られ、全身全霊を込めて被災者を励まされた。

この今上陛下が、
  既に八十を越え、幸い健康であるとは申せ、
  次第に進む身体の衰えを考慮する時、
  これまでのように、
  全身全霊を以て象徴の務めをはたしていくことが、
  難しくなるのではないかと案じています。
とのお言葉を発せられて皇太子殿下への御譲位を決意された。
謹んで承るべきお言葉である。
私は、早朝、仁徳天皇の御陵に参るとき、
天皇皇后両陛下のご健勝を、
切にお祈り申し上げる。

 

 

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