天皇と士魂が明治維新を実現した

平成30年1月31日(水)

本年、平成三十年が、
京都における「五箇条の御誓文」と「国威宣布の宸翰」の発布、
そして同日の江戸における徳川幕府軍と新政府軍との江戸無血開城合意、
の為された慶応四年戊辰(1868年)三月十四日、
元号改まって明治元年から百五十年。
それ故、世は盛んに、明治維新から百五十年、という。

そこで、本年が、明治百五十年であることの意義とは何かを改めて指摘したい。
それは、単なる、「歴史の回顧」としての明治百五十年ではなく、
現在の歴史段階と我が国を取り巻く厳しい内外の情勢の中で、
明治維新が、我が国が国難を克服する生きたモデルとして作用するからである。
明治維新は、現在における国難克服の指針である。
しかも、それは単なる「近代化」のモデルではなく、
日本的変革の指針だ。
即ち、明治維新は、
日本が日本でなくなるための変革ではなく、
日本が日本であり続けるための変革の指針である。
ここに明治百五十年を意識する戦略目的がある。
また、明治維新が、国家の存続のために、
「徳川幕藩体制」から脱却して
近代国民国家になる変革であるならば、
現在の我が国も、国家の存続のために、国家のサバイバルのために、
「戦後体制」=「日本国憲法体制」=「マッカーサー憲法体制」から脱却して、
自立した近代国民国家になる変革を実施しなければならない。

よって、この戦略目的の観点から
明治維新を成り立たせた前提を自覚する必要がある。
それは、我が国の
万世一系天皇」と「士魂の系譜」である。
そして、我が国の「士魂」とは「万世一系天皇」と不可分である。
幕末の武士で明治二十一年まで生きた山岡鉄舟が言うように、
我が国の「士魂」(武士道)は我が国の開闢とともにある。
我が国の開闢とは、即ち、天照大神の天壌無窮の神勅、とともにあるということだ。

近来、改革論議が盛んで、
猫も杓子も、選挙が迫れば改革を訴え、
カタカナを使えばうけると思えば「リセット」とも言っている。
ある総理は、構造改革とは郵政民営化です、郵政民営化とは構造改革です、
というような訳の分からんことを言って民衆を煽って成功し、
その成功例をもう一度と、大阪でも東京でも、都構想とか三都物語とか・・・、
民衆を煽る材料には事欠かない。
しかし、これは、結局、人目をひくための芸能プロダクション的集客戦略に過ぎない。
何時までも煽られ続けていれば危うい。
我が日本の真の改革は、
天皇と士魂から生まれる。
このこと、現在の戦後時代では保守反動というレッテルを貼られるのだが、
それこそ、明治維新百五十年であるが故に、自信を持って言っておく。

従って、この観点からみて、
明治維新とは何時なのか、と問われれば、
慶応三年暮れの大政奉還王政復古の大号令から
五箇条の御誓文と国威宣布の宸翰の発布
そして、
徴兵令から廃藩置県を経て
明治十年九月二十四日の城山における西郷南洲の戦死まで、
これが明治維新だとしたい。
西郷南洲は、我が国に「士魂」を残すために死んだからである。

次に、戦後の史観は、マルクス史観に影響されて、
明治維新フランス革命やプロレタリア革命と同様の次元で把握しようとしている。
しかし、明治維新は、フランス革命ロシア革命とは全く違う。
フランスやロシアの革命は、
過去と切断された無秩序と暴力のなかの殺戮である。
ルイ十六世とニコライ二世の殺害がその象徴である。
これに対して、我が国の明治維新は、王政復古の大号令によって始まった。
また、フランス革命ロシア革命は、
二十一世紀のフランスやロシアの改革の指針にはなり得ないが、
明治維新は二十一世紀の日本改革の指針であり日本的改革の原点である。
さらに、
フランス革命ロシア革命の構造と我が明治維新の構造を同一視して、
フランス革命が王党派とジャコバン派の抗争で、
ロシア革命ブルジョアとプロレタリアの両敵対勢力の抗争であったのと同じように、
明治維新佐幕派と討幕派の武力衝突が本質であるとして、
討幕派の歴史観ではなく佐幕派歴史観に立てば、
吉田松陰はテロリストになるというような議論が為されたりするが、
江戸無血開城が成ったことでも明らかなように、
天皇の下での明治維新は、彼ら西洋世界の革命とは全く違う。

ここで、
天皇と日本の淵源である
天照大神の天壌無窮の神勅と
士魂(武士道)の系譜を指摘しておく。

天壌無窮の神勅にある
「宜しく爾皇孫就いてしらせ」即ち「爾、皇孫、就(ゆ)いて、しらせ」
の「しらせ」とう文言に注目する。
この言葉こそ、大日本帝国憲法を起草した井上毅が、
古事記日本書紀などの我が国の古典を調べ尽くした中で、
最も注目した言葉であろうと思う。
この「しらす」こそ、
天皇の統治の本質である。
しらす、とは・・・
「人が外物と接する場合、即ち、見るも、聞くも、嗅ぐも、飲むも、食うも、知るも、
みな、自分以外にある他の物を、我が身に受け入れて、
他の物と我とが一つになること、即ち、自他の区別がなくなって、
一つにとけこんでしまうこと」(「宮中見聞録」元侍従次長 木下通雄著)である。
つまり、天皇がしらす国、即ち、日本とは、
天皇と国民が溶け合って一つの家族のように自他の区別がなくなる国のことである。
従って、
明治維新王政復古の大号令とは、
日本を天皇を戴く一つの家族の国に戻す号令であった。

三年間の税収途絶で、ボロボロの着物を着て雨が漏れる廃屋の皇居に住んでいる
仁徳天皇が、
民の竈から煙が上がるのを眺められて「我、すでに富めり」と言われたのは、
まさに、民と自分が一つの家族だと実感されていたからである。
また明治元年の国威宣布の宸翰で
明治天皇が、
「天下億兆一人も其の所を得ざるときは、皆朕が罪なれば」
と言われたのも民とご自分が家族だと思われているからである。
もちろん、敗戦の我が国の津々浦々を巡幸された
昭和天皇も、
東日本大震災の被災地を度々見舞われた
今上陛下も、
皆、国民と家族だと思われている。

これが、日本という国の姿、即ち、國體である。
我が国は、
如何なる「近代化」のなかでも、
如何なる「グローバリゼーション」のなかでも、
この「天皇のしらす国」という國體を維持しなければならない。
これが、日本的改革の要である。

次に、「士魂」であるが、
我が国の士魂は、
この「天皇のしらす国」に生まれた「士魂」である。
従って、「士魂」は、
天皇のもとでの「和」を回復する為の武力(兵法)であり誠心誠意の精鋭である。
即ち、天皇のもとで正々堂々と死ぬことを恐れないことが士魂の根底にある。
ここが、
異民族の殲滅のための武力を前提として、
武とは、敵を欺くこと、
即ち、詭道(きどう)であると説く支那の「孫子」との決定的違いだ。
敵を欺くことを基本姿勢とするとは、結局、死ぬことが怖いのである。

私の心に浮かんだ我が国の「士魂」の系譜を次に記しておく。

・弟橘姫命・・・日本武尊の為に入水する。即ち、最も清冽で尊い自己犠牲の姿
文永の役(一二七四)・・・対馬の宗助国ら八十四騎は、
   対馬の小茂田浜に上陸した雲霞の如き蒙古勢に微笑みながら突撃して玉砕した。
湊川の戦い(一三三六)・・・楠正成ら七百騎玉砕、七生報国を誓う、以後、挙族殉皇
徳川光圀湊川建碑(元禄五年、一六九二)・・・楠正成戦死の地に建ったこの碑
   「嗚呼忠臣楠子之墓」こそ、
    西国街道を行き来する庶民に楠正成の忠孝の志を廣く伝えた。
赤穂浪士吉良邸討ち入り(元禄十五年、一七〇三)・・・不滅の士魂
   吉良の家は、足利の本家筋。従って、その吉良の首を取った大石内蔵助
   楠正成の生まれ変わりだと人々は思い、次の歌を流行らせた。
     楠のいま大石となりにけり なほも朽ちせぬ忠孝をなす
嘉永六年(一八五三)・・・黒船来航、幕末(今楠の時代)始まる
安政六年(一八五九)十月二十七日・・・吉田松陰斬首、大和魂、士魂を残す
・慶応三年(一八六七)十月十四日、大政奉還、十二月九日、王政復古の大号令
明治元年(一八六八)三月十四日、五箇条の御誓文、国威宣布の宸翰、江戸無血開城
 四月二十一日・・・湊川神社創建を命じられる
・明治十年九月二十四日・・・西郷南洲、戦死、
  生死何疑天附與 願留魂魄護皇城
「生死なんぞ疑わん、天の付与するを、願はくば 魂魄を留めて皇城を守らん」
これは、沖永良部に幽閉されていた時の西郷南洲漢詩であるが、
皇居の武道館横の近衛歩兵第一連隊跡地には、
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからずとは雖も、
選ばれて近衛兵となり、
輦下に奉仕せる吾等、
たとい魂魄となりても永久に皇居を守護し奉らん。」
と刻まれている。
西郷南洲の士魂が、ここに受け継がれている。

 

 

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