祖先の勇戦奮闘の叙事詩を伝えない国に未来はない

平成30年3月8日(木)

私には、何時の頃からか、
例えば今日であれば、
日露戦争の我が日本軍は、三月八日は、何処で戦っていたのだろうか、
と、その時を思う癖がついた。
数年前の、強い寒風が吹き荒れるなかでの街頭演説の時、寒かったが、
今まさにこの時期に、
旅順要塞を、死を覚悟して最後の体力を振り絞って攻め続けた将兵のご苦労を思えば、
寒いなどと甘っちょろいことを言うな、
と自分に言い聞かせたのを思い出す。

しかし、この私の癖は、我が国の戦後では妙な癖だが、
我が国以外では、普通のことではないだろうか。
我が国で、
生徒がしんどいといって走るのを止め座り込んだ時、
先生が、旅順を落とした将兵の苦闘を思って頑張れ、
硫黄島で最後まで戦い抜いた将兵のことを思え、と言えば、
言われた生徒も周囲もキョトンとするだろうが、
イギリスでは、
先生が、ダンケルクの苦闘を思って諦めるなと言えば、
言われた生徒は、背筋を伸ばして立ち上がるだろう。
そこで、
教育者たる者、このようにせよ、とイギリスに教えたのは、
実は、
日露戦争を戦った無名の日本軍将兵だったことを知るべきだ。

イギリスは、日露戦争において、
日英同盟の故に、各国からの観戦武官の中では最上位の
陸軍大将を観戦武官として送り込んできた。イアン・ハミルトン大将である。
彼は退役後にエジンバラ大学の名誉総長に就任し、
イギリスの教育改革に尽力する。
彼は、日露戦争の日本軍将兵の戦いぶりを目の当たりに観て、
次のように説いた。
まず、日本から学ぶべきものとして兵士の忠誠心をあげて、
「子供達に軍人の理想を教え込まねばならない。
自分たちに先祖の愛国的精神に尊敬と賞賛の念を深く印象づけるように、
愛情、忠誠心、伝統および教育のあらゆる感化力を動員し、
次の世代の少年少女たちに働きかけるべきである。」
事実、イギリスの教育は、この通り行われた。
そして、
十年後の第一次世界大戦では、
イギリスのパブリックスクールの生徒は、志願して出陣し、
塹壕戦ではラグビーボールを蹴って塹壕から飛び出し突撃した。
そして、このことはイギリスだけのことではなく、
ドイツやフランスをはじめとするヨーロッパにおいて、
日本軍の突撃精神、犠牲的精神が見習うべき優れた特質であると高く評価された。
特に旅順要塞の戦いは、ハミルトン大将に強い印象を与え、
イギリス国防委員会が編纂した「日露戦争史」には、
「最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらされた。
この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として
末永く語り伝えられるであろう」
と記されている。
従って、第一次世界大戦では、
ベルダン要塞攻防戦でもソンムの会戦でも、
日露戦争の日本軍を見習った突撃が繰り返されたのだ。(以上、平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」より)

このヨーロッパからの観戦武官達に強烈な印象を与えた
満州で戦った無名の日本軍兵士達は、
我らの先祖である。
従って、イアン・ハミルトン大将の指針通り、
我々日本の教育は、
少年少女が、この我らの先祖の愛国的精神に尊敬と賞賛の念を懐くよう、
教育のあらゆる感化力を動員しなければならないのである。
さらに、もののあわれを知ること我が武士道ならば、
次のことも知るべきである。
それは、観戦武官達に強烈な印象を与えて満州の地に倒れていった将兵達に
最後まで寄り添ったものは何か、ということだ。
鈴木荘一氏は、著書「日露戦争と日本人」のなかで次のように書いておられる。

沙河会戦(十月二十日終結)における日本軍戦死者は、四千九十余人である。
荒涼たる満州の草原には、累々たる戦死体が横たわっていた。
ロシア軍砲弾の直撃を浴び、弾片で身体と軍服を裂かれ、
戦場に遺棄された日本兵の軍服のポケットから、
千切れてはみ出した軍事郵便が、戦場をわたる強風にあおられ、
草原の秋草の間を転々と舞った。
戦場に斃れた兵士に、最後まで寄り添ったもの・・・
それは、家族からの軍事郵便だったのである。」

この情景を思えば、目に涙が溢れてくる。
この沙河の会戦の時、
南の旅順では乃木第三軍による第二次総攻撃直前であった。
この後、第三軍は、
翌年一月一日のロシア軍の降伏まで、
戦死者一万五千四百名、負傷四万四千名を出す最難戦を戦い抜き、
直ちに奉天の会戦に間に合うべく満州を北上してくる。

そして、今日、三月八日、
つまり、明治三十八年(一九〇五年)三月八日、
日本軍二十四万九千八百名、砲数九百九十門、
ロシア軍三十万九千六百名、砲数一千二百門、
の世界陸戦史上最大の兵力となった日露両軍は、
奉天で激突して八日目である。
この奉天会戦において、
日本軍は三月一日から総攻撃を開始し、
少数の日本軍が遙かに優勢なロシア軍を、左翼から包囲しようとしていた。
この優勢なロシア軍を左翼から包囲するため、
最左翼に位置してロシアの大軍を相手に
壮烈な突出を命じられたのが旅順から北上してきた乃木第三軍であった。
三月八日、つまり、今日は、
その血みどろの苦闘の真っ最中であり、
まさに、第三軍は、崩壊の危機に瀕しながら奮闘していたのであった。
そして、
遂に翌九日午後五時三十分、
ロシア軍のクロパトキン大将は、
乃木第三軍に包囲されるのを恐れて、総退却を命じた。
しかし、その時、疲弊した乃木第三軍の戦力は限界に達していた。
三十万のロシア軍を追撃する為の砲弾と機動力が欠乏していたのである。
それ故、進撃を命じ、
「長蛇を逸するべからず」と督戦する満州軍作戦参謀に対して、
乃木第三軍参謀は憤然と、
「長蛇が逸するを待ちつつあり」と応じた。
第三軍に対する総司令部からの督戦と叱責は、
翌三月十日も続く。
第三軍からは、奉天からロシア兵を満載した列車が、
三十分おきに北上して行くのが見えた。
しかし、その退路を切断する力は既になかった。
この奉天大会戦における日本軍の損害は
戦死一万六千五百五十三名、
負傷五万三千四百七十五名である。
この時の戦場の情況を
石光真清少佐は次のように手記に書いている。
「未明から南風が強く、文字どおりの黄塵万丈、太陽の光もおおわれて漏れず、
天地暗澹として三、四間先の物さえ見えないほどであった。
すでに第一線の激闘は峠を越し、
銃砲声は遠く奉天に近づいていた。
傷ついて力尽きた将兵達は黄塵を浴びて随所に群がり横たわっており、
死屍もまた黄塵に半ば埋もれて識別困難であった。
第一線に近づくに従って、
黄塵におおわれた砂漠のような畑地には、
戦死者や重傷者が遺棄した銃器、弾薬、雑嚢、水筒などが死屍とともに散乱して、
半ば黄塵に埋まっていた。
兵士の一人一人が、
機関銃の猛射を避けるために円匙で自分の頭をいれる穴を掘った跡が、
黄塵に埋もれながらも点々と残っていた。
この日露大会戦の最後の戦場に、
若い命を散らした兵士達の哀れな営みが、
馬上の私の胸を締め付けた。」

この民族の叙事詩ともいうべき兵士達の勇戦奮闘、苦闘と哀感を
義務教育で教えない国に未来はない。
現在、我が国は、国難に直面しつつあるのであって、
この叙事詩を教えることこそ、
国家の存続を確保するための教育の基本である。
また、国軍を強くする基本である。
作戦要務令に曰く
必勝の信念は、主として軍の光輝ある歴史に根源し、周到なる訓練を以てこれを培養し、
卓越なる指揮統帥を以て之れを充実す。

三月十日は、
奉天大会戦勝利の日、
即ち、「陸軍記念日」であることを甦らせよう!

 

 

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