陸軍記念日と海軍記念日を讃えない明治維新百五十年は空虚である

平成30年6月4日(月)

明治維新百五十年を祝うとは、
「明治の日」を祝い「陸軍記念日」と「海軍記念日」を祝うことだ。
このことに関して、未だに「戦後体制」のベールによって、
明治維新からの我が民族と国家の歩みの実体が
国民の目から隠されたままになっているのを嘆かわしく思い、
次の一文を書いた。
以下は、月刊日本への出稿原稿に若干加筆したもの。

本年は、明治維新百五十年ということで、
「維新の元勲」を独占した薩摩、長州、土佐そして肥前薩長土肥の地では、
それぞれ記念行事をしているという。
また、例年行われている京都の時代祭では、
明治維新期から時代を遡って京都が都となった平安朝初期に至るまで、
それぞれの時代の装束を着た人々が、二キロにわたる行列となって都大路を練り歩く。
その行列の先頭は、
明治維新の「維新勤皇列」つぎに「維新志士列」、
つまり官軍と薩長土肥の志士の列だ。
私も、学生時代に、この時代祭で、槍を担いで歩くアルバイトをした。
 
この各地の記念行事と京都の時代祭を否定するのではないが、
ここにある共通した歴史観は何か、といえば、
それは、明治維新とは、
薩長土肥の志士が徳川幕府を倒すために京都を舞台に闘争し、
官軍(正義)が賊軍(悪党)を打ち破ったことだということになる。
つまり、戊辰の内戦は、正義が賊を倒した戦いなのだ。
そこで、問わねばならない。
このように歴史を矮小化させてもいいのであろうか。

この歴史観では、
「全日本」における明治維新の意義を説明できない。
第一、官軍が我が国の武士とは到底思えない暴虐の限りを尽くした会津では、
会津は悪だったから当然だと思わなければならないのか。
この歴史観では、
維新の記念行事は薩長土肥だけでしか開催できない。
会津では開催できない。
これは、東京裁判史観の明治維新版ではないか。
 
そうではなく、
天下国家の観点から、私を殺して、他国ではあり得ない大政を奉還した
十五代将軍徳川慶喜奥羽越列藩同盟の盟主であった会津藩を、
いつまでも「賊」と位置づける歴史観は、
この百五十年を機会にきっぱりと切り捨てるべきではないか。

幕末騒乱の地となり「血の雨」が降った京都の時代祭でいえば、
天皇がおられる京都の治安を維持するためにはるばる東北から京都にでてきて、
天皇のおられる御所に大砲をぶち込んで攻めてきた長州から
御所を守り京都の治安を維持した京都守護職会津藩松平容保藩士
そして新撰組は京都の恩人である。
よって、京都の時代祭では、薩長土肥の「官軍」や「志士」らとともに
会津藩士隊や新撰組都大路を歩いたらどうか。
松平容保に特別の信頼をおかれて彼の役割を高く評価し、
今は京都東山の泉涌寺境内に眠られる英邁なる
第百二十一代孝明天皇は、
さぞかし喜ばれるであろう。
 
東京にも京都にも小田原にも、維新の某元勲は広大にして豪壮な別邸を造り、
今はそこが、広大なホテルや料亭となっている。
これが、明治維新の「結果」だと思えば情けないではないか。
また、付言しておくが、
この御仁は、靖國神社の一の鳥居と二の鳥居の真ん中に
上野の方を向いた大村益次郎銅像を置いた。
大村が、旧式武器を持って上野に立て籠もった幕府の御家人達を
最新のアームストロング砲で短時間で粉砕したからであろう。
しかし、その大村の局地的所業の前に、
世界史上、我が国でしか起こりえなかった江戸城無血開城を成し遂げ、
単に官軍の次元を越えて
「日本そのもの」の安泰を確保した高貴なる存在と英傑達の功績が、
何故、維新の某元勲(実は長州の山県有朋)には、見えないのか。
この大村の銅像も矮小化された歴史観の生み出したものだ。
大村益次郎も苦笑しているであろう。
 
案の上、この官軍の連中が独占した新政府の情況は、
慨嘆すべき有様となった。
そして、これを憂い嘆き悲しんだ人士のいたことを忘れてはならない。
即ち、突然ころがりこんだ権勢に溺れて、
驕慢奢侈の風が生じ、廟堂には党派が生まれ、情実に支配され、
地方にも騒乱が絶えなかった当時の時弊を慨嘆して、
官吏の堕落を痛罵し、太政官への十箇条の建白書を掲げて
明治三年七月二十六日に切腹して諫言した旧薩摩藩士横山安武や、
同年十月、鹿児島に帰郷した弟の従道から、
成り上がりどもが我が物顔にのし歩き、
私利私欲に終始している有様を詳しく聞いて、
「おいどんは、こんな世の中にするつもりで、幕府を倒したのではない。
これでは中途で死んだ同志諸君に、全く申しわけがない」
と言って涙をこぼし、
遙々鹿児島に来た旧庄内藩士達には、
「草創の始めに立ちながら、
家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱え、蓄財を謀りなば
、維新の功業は遂げられまじき也。
今となりでは、戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、
天下に対し戦死者に対して面目ない」
としきりに涙をこぼしてて嘆いた
西郷隆盛(西田 実著「大西郷の逸話」と「西郷南洲遺訓」)の思いを甦らせ、
明治維新
日本民族と国家における意義を再確認しなければならない。
 
明治維新とは、
国家の生き残りをかけた幕藩体制からの脱却による近代国民国家の建設である。
明確に意識すべきことは、
我が国家の生き残り(サバイバル)を懸けた「我が国未曾有の変革」(五箇条の御誓文)が明治維新であったということだ。
 
嘉永六年(一八五三年)七月八日に、
舷側の窓を開いて大砲を突き出して江戸湾内に侵入してきたアメリカ東洋艦隊の四隻の黒船が「幕末」の始まり、未曾有の変革の始まりとなった。
当時の日本人は、
黒船の大砲は江戸城に届くが幕府の大砲は黒船に届かないことを直ちに知り、
国家存亡の危機感を懐いたのだ。
現在、北朝鮮中共の軍事パレードに登場するミサイルを見て、
それが何処まで届くのかを直ちに知り危機感を懐く日本人が少ないことを思えば、
嘉永六年(一八五三年)の日本人の方が民度が高いといえる。
もちろん、
四隻の黒船だけで危機感が生まれたのではない。
江戸時代中期から、我が国周辺の北や東や南の海から
ロシアやイギリスやアメリカの黒船が出没しはじめたことと、
一八四二年のアヘン戦争で、清国がイギリスに完全に屈服したことは、
我が国の指導層に大きな危機感を懐かせていた。
この背景の中で、
江戸湾に侵入してきた黒船を、目の当たりに見たので「泰平の眠り」が破れたのである。
ちなみに、この黒船四隻の船名は、旗艦がサスケハナ、
以下、サラトガミシシッピプリマスである。
我々は、この船名を忘れているが、アメリカは覚えている。
昭和二十年九月二日、
大東亜戦争の降伏文書調印の場となったアメリカ海軍戦艦ミズーリ号は、
嘉永六年七月八日、旗艦サセケハナが投錨した同じ地点を選んで投錨している。
そして、ミズーリ号の甲板には、
その時、サセケハナが掲げていた星条旗が掲げられていた。
また、現在も駐日アメリカ大使館の応接室には、
戦艦サスケハナのまことに立派で大きな模型が置かれている。
このサスケハナを見たとき、なるほどなあ、これがアメリカかと思った。
しかし、私と共にこの応接室に入った者のなかで、
サスケハナとは如何なる船か気付いた者はいなかった。
 
さて、明治維新百五十年にあたり、
その偉業を讃えるとは具体的に何かを述べたい。
それは、明治維新が、我が国家と民族の生き残り(サバイバル)を懸けた変革であったことから明らかであろう。
つまり、その国家の生き残りという
維新の切実な目的か完遂されたことを讃えなければならないのである。
その目的の完遂とは、
即ち、帝政ロシアとの明治三十七、八年戦役、日露戦争の勝利である。
この戦争に負ければ、我が国は、亡び、日本はなくなっていたからである。
そして、この勝利を決定付けたものは、
明治三十八年三月十日の
世界戦史上最大の陸上戦闘となった奉天大会戦の勝利であり、
同年五月二十七日の
対馬沖における日本海海戦勝利、
即ち我が連合艦隊によるロシアバルチック艦隊の撃滅である。
しかも、これらの勝利を導いたものは、
三十八年前の戊辰の役の敵味方の区別のない全国民からなる
我が軍隊を構成する一人一人の兵士の愛国の至情による鬼神も怖れる勇戦奮闘であった。
従って、この日は、
それぞれ「陸軍記念日」、「海軍記念日」という国民祝日とされた。
よって、明治維新百五十年にあたり、
我らは、「陸軍記念日」と「海軍記念日」を祝い、
この明治の偉大さを体現された
明治天皇のお誕生日である十一月三日の天長節を、
「明治の日」として甦らせねばならない。
この発想と動きが、現在の我が国にないということは、
我が国が未だに
「戦後体制」つまり「敗戦国体制」の中に閉じ込められているということだ。
しかし、これは亡国の体制である。
明治維新は、
国家のサバイバルの為に幕藩体制から脱却した。
同様に現在の我々も、
国家のサバイバルの為に
亡国の「戦後敗戦国体制」から脱却しなければならない。

この意味で、
五月二十七日の「海軍記念日」に、
最前線の国境の島対馬の北端の日本海海戦海域を見渡す殿崎の丘で、
日露対馬沖海戦追悼慰霊祭が
海戦百周年から百十三年の本年まで、毎年行われてきていることを
その追悼慰霊祭実施の推進力である
対馬比田勝の武末裕雄さんをはじめとする対馬の人々の名誉の為に記しておく。

 

 

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