「平成の御代」の最後の夏に

平成30年7月30日(月)

今上陛下は、
平成三十一年四月三十日に譲位され、
翌五月一日、
皇太子殿下が践祚されて第百二十六代天皇となられる。

そして、平成三十年の「平成の御代」の最後の夏は、
豪雨と猛暑と東京沖から西に向けて日本を横断して対馬の海に抜ける異常台風の夏
であったと記憶されるだろう。
そこで、まず、
この度の御譲位のご意向を国民に伝える、
今上陛下の、平成二十八年八月八日の「お言葉」を記して、
次に、この御譲位の予想を超えた大きな意義を述べていきたい。
お言葉、

既に八十を超え、
幸いに健康であるとは申せ、
次第に進む身体の衰えを考慮する時、
これまでのように
全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、
難しくなるのではないかと、案じています
 
この度の御譲位は、
この「お言葉」即ち「天皇陛下の御意思」によって行われる。
だが、我が国政府つまり安倍内閣は、
あくまで、天皇を、「日本国憲法」の枠内に閉じ込めるために、
天皇の御意思である譲位ではなく、
あくまで単なる「退位」としている。
しかし、これは、戦後体制の法匪が得意とする
まことに無礼で卑劣で文字通り不敬な、事実の改竄である。
 
この今上陛下の「お言葉」に接して感じたことは、
今上陛下が、ご自分の年齢ゆえの不安を、
赤裸々に、身内、家族に打ち明けるように国民に伝えられているということだ。
そして、もうお一人の、
年齢ゆえの不安を国民に赤裸々に訴えられた天皇のお言葉を思い起こした。
それは、
十六歳の明治天皇が、
慶応四年(明治元年)三月十四日、
五箇条の御誓文」とともに国民に発せられた
「国威宣布の宸翰」の冒頭の一節である。

朕幼弱を以て猝(には)かに大統を紹き
爾来何を以て万国に対立し列祖に事え奉らんかと
朝夕恐懼に堪えざるなり
 
今上陛下は、平成二十八年八月八日、八十歳を越えた老齢ゆえの不安を、
明治天皇は、慶応四年三月十四日、十六歳の幼弱ゆえの不安を、
それぞれ国民に家族や身内に伝えるように訴えられた。
即ち、この明治天皇と今上陛下のお二人の「お言葉」は、
天皇と国民は一つの家族」であるという
我が国の伝統、我が国の國體を顕している。

その上で、次に、この度の御譲位の意義について述べたい。
この意義の第一は、
この御譲位は、
譲位と上皇の規定を有しない「日本国憲法」が、想定していないこと、
であるということである。
即ち、今上陛下は、御譲位によって「上皇」となられ
日本国憲法」を超えられるのだ。
天皇上皇となられ、
日本国憲法」を超えられる、即ち、「戦後体制」を超えられる。
この意義は、計り知れない。
 
そこで、この度の今上陛下の御譲位から連想される
第百八代後水尾天皇の御譲位を振り返ってみよう(以下、西暦を使う)。
後水尾天皇は、
一五九六年に生まれ一六八〇年に崩御された、
昭和天皇に次いで歴代最長寿の天皇である。
在位は、一六一一年から一六二九年までの十八年間であるが、
御譲位の後、崩御まで、
全てご自分の子である四代の天皇の後見人として、
五十一年間にわたって上皇として院政を敷かれた。
上皇として後見された最後の天皇である
霊元天皇は、
後水尾上皇が五十八歳の時に生ませた御子である。
この一事をみても、
並ではない大きな存在感のある上皇であったこと間違いない。

この後水尾天皇の時代は、
関ヶ原合戦の勝利から一六一五年の豊臣本家滅亡を経て本格化する、
徳川幕府の権力確立期であった。
従って、幕府の、
朝廷に対する公然また非公然の圧力と統制が強まる時期であった。
それは、幕府の定めた
「公家衆諸法度」、「勅許紫衣法度」そして「禁中並公家諸法度」などの法制によって
朝廷の行動全般が、京都所司代によって幕府の管理下におかれるというものである。
 
このような中で、
後水尾天皇は、従来の慣例通り、
十数名の僧侶に紫衣着用の勅許をお与えになった。
これを知った将軍徳川家光は、
幕府に相談がなかったとして勅許の無効を宣言した(紫衣事件、一六二七年)。
その上で、幕府は、勅許を無効にすることに異議を唱えた
大徳寺沢庵宗彭らの高僧を出羽や陸奥への流罪に処した(一六二九年)。
これらの幕府の措置は、
元々、朝廷の官職の一つであった征夷大将軍の家光が、
後水尾天皇よりも上に立つことを意味し、
ひいては、「天壌無窮の神勅」に背くものである。
また、その家光の乳母の春日の局は、
無位無冠の身でありながら朝廷に参内した(金杯事件)。
これら、
朝廷の権威を失墜させ無視する幕府の所業に接し、
後水尾天皇は、
一六二九年十一月八日、突如、幕府に知らせることなく、
六才の次女である興子内親王明正天皇)に譲位され上皇となられ、
以後、崩御されるまでの五十一年間にわたって、院政を敷かれたのだ。
この後水尾天皇の御譲位の意図については諸説あるが、
後水尾上皇の五十一年間の院政が、
徳川幕府の朝廷の権威を貶め朝廷を幕府の統制下に閉じ込めようとする施策に対抗し、
朝廷の存在感を天下に示し続けるものであったことは確かである。
私は、学生時代、
京都の修学院坪江町に下宿していた時があったのだが、
近くの修学院離宮は、一六五五年、後水尾上皇の指示によって建てられたものである。
そして、
この後水尾天皇また上皇の御代の中で生まれ育ったのが
儒者にして軍学者山鹿素行(一六二二年生)であり
水戸学の祖徳川光圀(一六二八年生)である。
 
従って、後水尾上皇の存在が、彼ら二人に尊皇の精神を醸成させ、
それが、
元禄五年の徳川光圀による、
兵庫の湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」
と刻まれた巨大な楠正成の墓の建設(湊川建碑)と
日本の歴史書である大日本史の編纂開始、
そして山鹿素行
「中朝事実」の発刊に至るのだと指摘したい。
前者は、楠正成の、
たとえここ湊川で死んでも、七度生まれて朝敵を亡ぼさんという
壮烈な尊皇の志を讃えるものであり、
後者の「中朝事実」も、
支那ではなく日本こそ中華であり、
万世一系天皇がおられる万邦無比の国であるとする
強烈な尊皇の思想宣言の書である。
それ故、
この二人の人物の存在が、
徳川幕藩体制からの脱却と明治維新
そして明治の国難を克服するために果たした功績は計り知れない。
しかも、その影響は、明治に止まるのではなく、
現在にも、伏流水となって続いていることを知るべきだ。
例えば、幼少時に山鹿素行の山鹿流軍学を学び、
日露戦争において武勇を讃えられた陸軍大将そして学習院院長であった乃木希典が、
大正元年九月十三日に、明治天皇の御後を追って自決する直前に、
皇太子であった後の昭和天皇に渡したのは、
山鹿素行の「中朝事実」であったことを忘れてはならない。
昭和天皇は、後年、

私の人格形成に、
最も大きな影響を与えたのは、
乃木学習院院長であった

と述べられている。
 
さらに、徳川光圀湊川建碑と山鹿素行の教えは、
元禄十五年十二月十四日の
赤穂浪士の吉良邸討ち入りと密接な関係がある。
赤穂藩士達は、
西国街道側に立つ
尊皇の志を讃えた「嗚呼忠臣楠子之墓」を眺めて参勤交代をした。
また、朱子学を批判して江戸を追放され
赤穂藩お預けとなって赤穂に来た山鹿素行の、
赤穂での門弟が赤穂藩家老で吉良邸討ち入りの大石内蔵助良雄と藩士達である。
山鹿素行の教えを受けて赤穂藩は「尊皇の藩」となった。
ここに、
朝廷の権威を貶めるという幕府の方針通り、
江戸に入る天皇の勅使を処遇しようとする高家筆頭の吉良上野介に対する
「尊皇の藩」の藩主、浅野内匠頭の義憤が爆発する要因があった。
従って、大石内蔵助ら四十七人の赤穂浪士は、
この主君の「尊皇の志」による義憤が分かるが故に、
艱難を乗り越えて、主君の為に不敬の吉良上野介の首をとったのだ。

楠正成の戦いと赤穂浪士の討ち入りは、
日本人が日本人である限り伝えられ甦る民族の叙事詩である。
当時の日本人は、
既に、湊川建碑および伝承によって、
楠正成ら主従が、朝敵の足利を打つ為に、
七度生まれ変わって朝敵を打つ誓いをしたことを知っており、
大石内蔵助はじめ赤穂浪士達が吉良上野介の首を打ったとき、
次の歌が、直ちに歌われ、全国に広がった。
吉良上野介の家は、足利の本家筋の名門であったからだ。

楠のいま大石になりにけりなほも朽ちせぬ忠孝をなす
 
以上、後水尾天皇の御譲位とその影響を見たのであるが、
この譲位は、幕藩の朝廷への統制に対抗して、
それを超えようとして為された。
それ故、後水尾上皇の御存在は、
江戸時代民衆の日本という国への自覚の深まりとともに、
心ある人々の尊皇の思いを触発し、
幕藩体制」を倒す流れの源となり、後の世に大きな影響を与えたと言える。

そこで、
この後水尾天皇の御譲位と対比したかたちで、
今上陛下の御譲位の意義を言う。
この度の御譲位は、
日本国憲法」を超えること、
即ち、「日本国憲法」に基づく戦後政治の朝廷に対する束縛を超えるものである。
もはや、上皇となられた陛下には、
日本国憲法」第一章「天皇」に記された制限と統制はないのだ。
従って、その上皇の行為には、
「内閣の助言と承認がいる」(第三条)とか
「国政に関する権能を有しない」(第四条)とか、
政教分離」とかの制限はない。

そこで、思う。
この「日本国憲法」の想定していない
上皇となられた陛下は、
如何なる御日常を送られるのだろうか。
 
平成二十七年四月八日から九日、
天皇皇后両陛下は、
東京から四千㎞南の赤道下の南太平洋に浮かぶパラオ共和国行幸啓され、
日本軍将兵が、天皇への忠誠の思いを持って戦い玉砕したが故に、
アメリカ軍から、
天皇の島」と畏敬の念をもって呼ばれた日米激戦の島ペリリュー島
日米両軍戦没将兵の慰霊をされた。
私と仲間は、前日にペリリュー島に泊まり、
翌朝、ヘリコプターで島に入られた両陛下を、
ジャングルの中の道に立ってお迎えした。
両陛下のお車は、
人のいないジャングルの中の狭い地道を、
遙か彼方から子供が歩くような低速で、道ばたに佇む我らに近づいてこられた。
我らは、最敬礼をして両陛下をお迎えした。
両陛下のお車は、我らの前で、ほとんど、停車され、
そして、通り過ぎていかれた。
その時、私は、ハッと、
そのジャングルの道を進む両陛下のお車が極めてゆっくりだったわけが分かった。
両陛下は、
そのジャングルのなかに数ヶ月の間立て籠もって玉砕していった
一万余の日本軍将兵英霊に、
挨拶をされながら走行してこられたのだ。
玉砕の島に降りたたれた両陛下は
静かに「全身全霊をもって」、英霊を見つめ慰霊をされておられたのだ。
その時、
天皇皇后両陛下の瞼に、
ジャングルの中に立ち上がって敬礼している
無数の日本軍将兵の姿が映っていたはずだ。
そう思って、
両陛下が通り過ぎられたジャングルの道を振り返り佇んでいたとき、
そのジャングルのなかに、
今、陛下に会えて喜ぶ無量の英霊がいるような感じがこみ上げ、
涙と汗が頬を流れた。

この灼熱のペリリュー島のジャングルで、
両陛下に接して、
今、思う。
上皇になられた陛下は、
戦後体制の束縛により、ペリリュー島よりも遠い皇居の横にある、
全英霊が祀られている靖國神社に御親拝される、と。
かくして、
全英霊が喜び、鎮まられることは、
我が国の政(まつりごと)における、最深のもの最大のものであり、
我が国家存続と国民の幸せの根本である。
それを担われているのは、
沖縄、硫黄島サイパンそしてペリリュー島に慰霊の行幸啓を続けられてきた
今上陛下、御上御一人、である。
まことに、ありがたいことではないか。
日本人に生まれ、
天皇を戴いて生きる喜びをかみしめ、
皇室の彌榮と、
両陛下のご健勝を、
切に、切に、祈り申し上げます。

 

 

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