今上陛下の御譲位により我らは戦後憲法体制から脱却する

平成30年10月11日(木)

この度、「伝統と革新」誌から、
今上陛下の御譲位についての論考を求められたので、
本日、それを同誌に送信した。
そこで、
その原稿にさらに付け加えて以下の通り時事通信を記すことにした。
ご閲覧をいただければ、幸甚です。

                 記 

今上陛下は、
来年の四月三十日に譲位され、
翌五月一日に皇太子殿下が第百二十六代天皇となられる。
この「御譲位」を、
昭和二十一年二月の九日間で起案され、
同二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」と題する文書(以下、憲法という)
は想定していない。
 
それ故、安倍内閣つまり我が政府は、
憲法第四条の
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」との条項を持ち出して、
天皇は、
御自らの御意志で皇位を譲るという、憲法四条にはない、
我が国の「国事に関する」また「国政に関する」、
まさに最深かつ最大の行為を為すことはできないのだから、
この度のことは「御譲位」ではなく
天皇の御意志に基づかない
内閣が決めた単なる「退位」であるとしている。
 
しかし、
平成二十八年八月八日、
今上陛下の全国民に向かって発せられた「お言葉」により、
この度の御譲位が為されるのであり、
これは、まさに、
全国民の前で誤魔化しようもない今上陛下の御意志によるものである。
斯くして、
この度の御譲位は、
今上陛下御自らが憲法の想定していないことを為されるということである。
つまり、今上陛下は、
憲法の制約を超えられて、
憲法の想定していない「上皇」となられる。
 
内閣総理大臣安倍晋三氏は、
「戦後体制からの脱却」や「日本を取り戻す」というキャッチフレーズを掲げ、
憲法改正を目指すと公言している。
それが同氏の志であるならば、
今上陛下が御自らの御意志で譲位され、
それによって憲法を超えられること、
つまり、戦後体制から脱却され日本を取り戻されることを、
ありがたく畏まり、素直に認めるべきである。
それをせずに、
あたかも憲法を盲信するかのごとく、
いたずらに配下の「法匪」の憲法条文解釈の小細工に盲従し、
陛下御自ら全国民に示された御譲位の御意志を、
目をつぶれば世界がなくなるとでも信じているのか、
不遜にも無視して、
陛下の御意志に基づかない「退位」とするなど
不敬の極みである。
之、靖国神社に参拝できない小心者らしい背信と言うべきか。
改正が必要だと自ら公言する憲法を、
天皇の御意志よりも優位に置くとは何事ぞ。
以上、
本稿を記するにあたり、
まずこの度の御譲位の本質についての認識を明確にしておく。
 
さて、
平成二十八年八月八日のお言葉を拝聴し、以後繰り返し拝読して、
このように赤裸々に自らの思いを国民に伝えられる今上陛下は、
やはり国民を御自分の家族を思っておられるのだとしみじみ思った。
そして、
もうお一人の国民に赤裸々に自らの思いを伝えられた天皇を思う。
それは、明治天皇である。
次に、今上陛下のこの度の「お言葉」を記し、
慶応四年(明治元年)三月十四日の五箇条のご誓文と同日に発せられた
明治天皇の「国威宣布の宸翰」の冒頭を記す。

・・・何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、
加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、
これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、
どのように身を処していくことが、
国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり、
良いことであるかにつき、考えるようになりました。
既に八十を越え、幸い健康であるとは申せ、
次第に進む身体の衰えを考慮する時、
これまでのように全身全霊をもって、象徴としての務めを果たしてゆくことが、
難しくなるのではないかと案じています。

朕幼弱を以て猝(にわ)かに大統を紹き
爾来何を以て万国に対立し列祖に事えへ奉らんかと朝夕恐懼に堪えるざるなり。
・・・今般朝政一新の時膺(あた)りて
天下億兆一人も其所を得ざるときは、皆朕が罪なれば、
今日の事朕躬(みずか)ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、
古列祖の尽させ給ひしあとを践み、治績を勤めてこそ
、始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし。

今上陛下は、お言葉で、
八十歳を越えられた老齢故の不安を語られ、
明治天皇は、御宸翰で、
十六歳の幼弱故の不安とみずみずしい志を語られている。
ともに誠に正直に何も隠さず、自らの心境を語られている。
世界の君主で、このように赤裸々に国民に語る君主など
日本以外の何処にあろうか。
今上陛下と明治天皇のお二人とも、
国民と御自分は一つの家族だと思われているからこそ、
親しい家族に打ち明けるように御自分の不安を正直に言われた。
まさに、このあり方こそ、
神武創業以来、万世一系天皇と我ら民の姿、
すなわち、我が国の國體なのだ。
 
天皇の統治を表現する古代やまと言葉は「しらす」である。
天照大神の「天壌無窮の神勅」により天皇が生まれる。
その神勅にある
「宜しく、爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いてしらせ」の「しらす」、
また、万葉集第一巻冒頭の
「初瀬朝倉宮に天(あめ)のしたしらしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)」の「しらす」だ。
これに対し、
天皇以外の者の統治を表現する言葉は「うしはく」である。
そして、大国主命の国譲りの神話は、
天照大神の使者が、大国主命に、
「汝(な)がうしはける葦原の中つ国は、わが御子のしらさむ国」と告げると、
大国主命は、自分の「うしはく国」を
天照大神の御子の「しらす国」にするために譲ったという物語である。
 
では「しらす」と「うしはく」はどう違うのか。
「うしはく」は、
ある地方の土地と人民を、我が物として、
すなわち我が所有物として領有支配すること、である。
これに対して「しらす」とは、
人が外物と接する場合、即ち、見るも、聞くも、嗅ぐも、飲むも、食うも、知るも、
みな、自分以外にある他の物を、我が身に受け入れて、
他の物と我とが一つになること、
即ち、自他の区別がなくなって、一つに溶け込んでしまうこと、だ(元侍従次長木下通雄著「宮中見聞録」)。
 
大国主命は、自分が領有し支配する土地と人民を、
天照大神の御子と自他の区別がなくなって一体となる国の土地と人民にした。
これが国譲りの話の尊さだ。
従って、美智子皇后陛下が大国主命を祀る出雲大社に参られて、
「国譲り祀られましし大神の奇しき御業を偲びてやまむ」
という我が国の誕生の不思議に深く思いをはせられた雄渾な御歌を詠まれた。
そして、ここから、
天皇しらす国」である日本が誕生し、
万世一系天皇が百二十五代の今上陛下まで続いてこられている。
従って、明治天皇も今上陛下も、
この「天皇しらす国」の天皇として家族に語るように国民に語られたのだ。
まさにここに、我が国の國體、
つまり紙に書かれない歴史と伝統のなかの「真の憲法」がある。
そして、今上陛下の御譲位は、
まさしくこの天照大神の「天壌無窮の神勅」に基づく國體、
即ち「真の憲法」に基づいたで為されるのだ。
 
従って、
そもそも昭和二十一年二月に
進駐軍の総司令部(GHQ)の二十数人(外国人)が書いた憲法で、
この度の御譲位が把握できるはずがないではないか。
我らは、
この度の今上陛下の御譲位に際して、
もうぼつぼつ、
我が国の「真の憲法」は何処にあるのか!
それは、昭和二十一年二月に、
GHQの我が国のことなど知らない外国人の若造が九日間で書いた
この憲法と題する、この、中学生の作文のような文書、
こ、これが、我が国の根本規範である「憲法」そして「國體」なのか、
それとも、
我が国の神話に根源する歴史と伝統のなかにある眼前の天皇と、
目に見えない「規範」が「憲法」なのか、
事態の経緯と実相に基づいて、
腹の底から決定する時である。
この度の、御譲位は、
我々国民に、
己の「真の憲法」は何かを問いかけているのだ。

そこで、
天皇の百二十五代に及ぶ万世一系の歴史の中に、
この度の御譲位と、
時の体制を越えるという意義において相似た御譲位が為されているので、
それを取り上げてみたい。
既に述べたように、
このたびの第百二十五代の今上陛下の御譲位が、憲法=「戦後体制」を超えるものならば、第百八代後水尾天皇の御譲位は「徳川幕藩体制」を超えるものであった。
後水尾天皇は、
文禄五年(一五九六年)にお生まれになり延宝八年(一六八〇年)に崩御された。
昭和天皇までの歴代天皇のなかでは、歴代最長寿の天皇である。
しかし、
在位は一六一一年から一六二九年の十八年間に過ぎない。
後水尾天皇の育った時代は、
関ヶ原の天下分け目の戦い(一六〇〇年)に勝った徳川家康が、
徳川幕府の支配体制を整え始め、
遂に豊臣宗家を滅ぼして(大坂夏の陣、一六一五年)、
その支配体制を確立した時期であった。
大阪夏の陣の四年前に即位された後水尾天皇は、
まさに徳川幕藩体制の確立期の中で、
朝廷を幕府の統制下に置こうとする徳川家康の圧力に相対することになった。
幕府は、
天皇と朝廷を統制するために京都所司代を置き、
一六一五年には禁中並公家諸法度を定めて、
幕府を超える権威を認めないことにするために、
天皇が高僧や尼に紫衣の着用を勅許することを禁止し、
皇族の入寺も禁止し、門跡寺院を廃止しようとした。こ
の法度は江戸時代を通じて一切改定されていない。
これは、幕府が京都所司代を通じて天皇と朝廷を管理下に置くための法であった。
 
しかし、寛永四年(一六二七年)、
後水尾天皇は、朝廷の従来の慣例通り、十数人の高僧に紫衣着用の勅許をお与えになった。これを知った将軍徳川家光は、法度違反であるとして勅許の無効を宣言し、
京都所司代に紫衣を取り上げるように命じた。
しかし、朝廷は紫衣着用の勅許を無効とすることに強く反発した。
朝廷の官職の一つに過ぎない征夷大将軍が、
天皇より上に立つことは自己矛盾であり「天壌無窮の神勅」に背くことになるからである。しかし、幕府は、
朝廷に同調した大徳寺の住職沢庵和尚や妙心寺の住職を
出羽国陸奥国流罪に処した(一六二九年七月二十五日)。
すると同年十一月八日、
後水尾天皇は、
突然、六歳の第二皇女興(おき)子(こ)内親王明正天皇)に譲位される。
在位十八年、三十四歳。
以後、後水尾天皇は、上皇として、すべてご自分の子である
光明天皇後西天皇そして霊元天皇まで四代の天皇の後見人として院政を敷かれた。
後水尾天皇は、生涯に三十余人の子供を生ませ、
霊元天皇は五十八歳の時に生まれた御子である。
これを見ても、
生涯にわたって強い存在感を幕藩体制下で発揮された天皇上皇といえる。
幕府は、当初「院政」は禁中外の存在であるとして「院政」を否定していたが、
後に徳川家光後水尾上皇院政を認めた。
しかし、上皇と幕府との確執は続く。
とはいえ、後水尾上皇(後に法皇)の存在は、
幕府の諸大名を従わせる権力を超える権威として
世の人心に強い印象を与え続けたことは確かである。

修学院離宮後水尾上皇が建てられた離宮だ。
私は学生時代の最後の時期を修学院離宮の近くの修学院坪江町の下宿で暮らしていた。
幕藩体制の下では
天皇は生涯にわたって京都の御所の外に出られなかった。
また、幕府は朝廷を資金的に窮乏状態に止めおき、
後に高山彦九郎は、三条大橋の上で、
破れた御所の塀の隙間から皇居の灯りが見えるのを嘆き、涙を流した。
そして、大名も参勤交代の途上に京都に近づくことを許されていない。
大名が朝廷と接触することを幕府は禁じていたのだ。
このような中で、
修学院離宮を造営した後水尾上皇の存在感は、
まさに幕藩体制を越える権威であったといえる。
 
そこで、
明治維新を導いた思想は何かと探れば、
それは、天皇を中心とする國體思想だといえる。
従って、明治維新を成し遂げた幕末の志士たちの思想的バックボーンは、
山崎闇斎を祖とする崎門学と水戸学、
さらに、我が国は天皇を中心とする万邦無比の国であり
我が国こそ中朝(中華)であると説いた
「中朝事実」を著した山鹿素行
さらに本居宣長平田篤胤国学に発する。
この崎門学の祖である山崎闇斎(一六一八年生れ)と
闇斎の弟子で幕末の志士が教科書として愛読した
「靖献遺言」を著した浅見絅齋(一六五二年生れ)、
また山鹿素行(一六二二年生れ)、
そして、吉田松陰を始めとする幕末の志士たちが、
その前に額ずき泣いた湊川の「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てた(湊川建碑)
水戸光圀(一六二八年生れ)は、
皆、後水尾天皇上皇の御代(一五九六年~一六八〇年)に生まれた者である。
彼らは、もちろん、
武家の権力である幕藩体制が天下の秩序であるなかで育った。
しかし、この盤石な徳川の権力を以てしても、
覆うことのできない
幕府の権力を越える権威があることを
後水尾天皇そして上皇は体現されていた。
私は、明治維新に至る流れを生み出す源流に、
水尾天皇上皇の御存在があると思うのである。
 
以上、
後水尾天皇の御譲位が、
後世に与えた静かでしかし底の知れない大きな時代を変えるうねりを概観し、
それが幕藩体制から明治維新に日本を脱却させる導火線になったと述べた。
御自分の御譲位が遙か二百数十年後の明治維新の導火線になることを
後水尾天皇ご自身が自覚されていたのではないだろう。
しかし、まさに後水尾天皇の御譲位は、徳川幕藩体制打倒に繋がるのだ。
そして、
この後水尾天皇の御譲位と同様に、
今上陛下の御譲位と上皇としての御存在は、
戦後体制=憲法を越え、
再び日本を取り戻す導火線になる、とここで記しておく。
 
明治維新幕藩体制を越えて
天皇を中心とする近代国民国家としての日本を出現させたのは、
我が国家の生き残りの為であった。
即ち、あの時、
幕藩体制のままならば、我が国は欧米列強の餌食になり滅亡していた。
今、再び、我が国は、
憲法=戦後体制を越えて
天皇を中心とする国民国家にならなければ存続できない国際情勢の中に突入している。
現在の、旧体制からの脱却を促す内外の情勢は、
幕末と酷似している。
この時に当たり、
今上陛下が、御譲位によって、
衆に先んじて!
憲法=戦後体制から脱却され憲法にない上皇となられる。
この、
お国を救う御譲位のありがたさを、かみしめようではないか。

本年九月十八日から二十一日までの四日間、
今上陛下の御代の最後の初秋、
皇居の勤労奉仕団の一員として皇居の清掃をさせていただいた。
初日に天皇皇后両陛下のご会釈を賜り、
二日目に皇太子殿下のご会釈を賜った。
そして、
天照大神を祀る賢所
神武天皇から歴代天皇と皇族の霊を祀る皇霊殿
そして全国の神々を祀る神殿の
宮中三殿の前に佇んだ時、
ここが天壌無窮の神勅によって天皇を戴く日本の中枢であるのを感じた。
その時の感じは、
アニメの飛行石の結晶を見たようであった。
スタジオジブリの作品に
天空の城ラピュタ」という長編アニメーション映画がある。
そのアニメの二人の若者は、
空に浮かぶラピュタの中心部に入り、ラピュタを空に浮かべているものを見た。
それはラピュタの中枢にある、飛行石の結晶であった。
宮中三殿の前に佇んだとき、
私は、日本という神話から発する天空に浮かぶような国を
万邦無比の日本たらしめている中枢、
飛行石の結晶の前にいるような思いがしたのだ。
そして、無限の安らぎを感じた。
さらに、
かつて聖武天皇の皇居を警護していた
海犬養岡麿の次の歌と同じ思いで皇居内にいた。

御民われ生ける験(しるし)あり天地の栄ゆると時に遇へらく思へば

また敗戦直後の侍従次長の木下道雄は、昭和二十一年次のように詠んだ。

御民われ生ける験あり天地の崩るる時に遇へらく思へば

栄える時も崩るるときも、
我ら日本人は天皇と家族のようにともにあった。
それが日本の永遠の姿である。
日本の強靱さの源泉はこの國體にある。
よって、
我が国を天皇を中心とする国民国家に復元しなければならない。
そのためにかつての幕藩体制のように、
我が国の中枢を覆い隠すマッカーサー憲法=戦後体制から
脱却しなければならない。
まさにこの時、
今上陛下は、
我ら衆に先んじて、
御譲位によって、御自ら戦後憲法体制を越えられるのだ。
まさに、生きる験ありではないか。

 

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