悲劇的なまでに偉大であった明治

平成30年10月29日(月)

明治天皇のお誕生日、十一月三日の天長節、即ち「明治の日」が迫る
本日十月二十九日、高円宮絢子さまご婚礼が明治神宮で行われた。
まことに、おめでとうございます。
絢子さまは、
明治天皇の孫で昭和天皇の弟である三笠宮親王の孫にあたられる。

そして、本日の産経新聞「正論」は、
新保祐司氏の「『正気』が光放った明治の気概を」と題する一文である。
この一文は、まことに格調高く、
高貴なる明治の精神が書かせた如き気品が感じられる。
幕末の志士に重大な影響を与えた藤田東湖の「正気の歌」を背景にした
「正気の碑(いしぶみ)」と言える。

新保祐司氏は、
明治神宮外苑の「聖徳記念絵画館」で
明治天皇の御誕生から大正元年の御大葬までの歴史的場面を描いた絵画八十点を観た。
そして、「正論」に記している。
「観終わった後に、心に強く浮かんでくるのは、
明治という時代のなんと悲劇的なまでに偉大であったことよ、
という感慨である。」
さらに観に来ていた小学生の団体に、
「この子供たちが、明治以降の近代日本の歩みの
偉大さとその底流にある悲しみを感じ取ってくれることを祈った。
彼らの中に今後の日本を支える人物がきっと現れることであろう。」

私には、この新保氏の文章にある
明治という時代の、
「悲劇的なまでに偉大であったことよ」
「偉大さとその底流にある悲しみ」
という表現が心にしみた。
そして、私の祖父東儀哲三郎(明治十七年生)が、
娘である私の母(明治四十二年生)に語った
明治天皇に復命のために満州から帰国して
明治三十九年一月十四日、第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた
第三軍司令官陸軍大将乃木希典の様子を思い出した。
祖父が新橋駅に着いた乃木将軍の様子を娘に語り、
母が父に聞かされた通りに私に語ったのだ。

前年の十二月の暮れ、第三軍に凱旋の命が下り乃木将軍は帰国の途についたが、
その時乃木は次の漢詩を書いている。
皇師百万強膚ヲ制ス
野戦攻城屍(シカバネ)山ヲ作ス
愧(ハ)ズ我何ノ顔(カンバセ)アッテ父老ニ看(マミ)エン
凱歌今日幾人カ還ル
乃木は、戦死した二人の息子と共に自分も戦死したかった。
初戦の南山の戦いで長男の勝典が戦死(満二十四歳)し、
六ヶ月後、203高地で次男の保典(満二十二歳)が戦死した。
乃木の妻の静子は、二人の息子が出征するときそれぞれ香水を渡した。
戦死したとき、遺体から腐臭が発するのを防ぐためである。
新橋駅に乃木を迎えに来た群衆は、
乃木が二人の息子を失ったことを知っていた。
そして、人々は、
「一人息子と泣いてはすまぬ。二人なくした方もある」
と言い合った。
さて、乃木希典は、
新橋駅前に詰めかけた人々に対してどういう態度だったのか。
まるで、
申し訳ないことをした人のように下を向いていた。
決して、凱旋将軍のようには見えなかった。
と、私の祖父が母である娘に語った。
また、思い出した。
私も学生時代に明治の「偉大さとその底流にある悲しみ」を観ていたのだ。
それは、京都黒谷の会津藩殉難者墓地の近くにある
「陸軍歩兵中尉従七位勲六等功五級岡本經忠之墓」だ。
この墓石の裏には、碑面乃木大将筆と刻まれ、次の文字が並んでいた。
「君・・・資性剛毅、
修京都中学業入士官学校任陸軍少尉補・・・
制露役起直・・・従軍奮戦激闘奏偉功因進中尉・・・
戦死・・・旅順小東溝付近時年二十六明治三十七年八月二十日也」
この碑文を学生時代の散歩の途上に読んだとき、
京都中学から旅順の要塞攻撃にまっしぐらに走っていった青年を思った。
この岡本中尉の横の墓石は、
大正時代に亡くなった岡本中尉の父と昭和まで生きた母の墓である。
以来、京都に行けば、時々、この黒谷の会津藩殉難者墓地と岡本中尉の墓に参る。
本年二月も、この墓石の前に行った。
これが、私が観た「偉大さとその底流にある悲しみ」の姿だ。

新橋から乃木は、宮城に向かい参内する。
そして、明治天皇の謁を賜り軍司令官の最後の勤めを果たす。
それは、戦死した将兵の死を、
我が国の「至高にして悠久の公」を体現している天皇に結びつけることだ。
彼は、嗚咽をこらえきれず、時に詰まりながら、
明治天皇に十六カ月間にわたる激闘の復命をした。

以上、
新保氏の「正論」から思い浮かんだことを記した次第。

 

 

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