東日本大震災における自衛隊を見よ。

平成31年3月11日(月)

本日三月十一日は、八年前に、
東日本大震災と巨大津波が東方地方太平洋側を襲った日である。
死者は一万五八九七人、行方不明者は二千五三三人。
それ故、
マスコミは、全国での追悼慰霊の様子を伝え、
被災者と被災地の苦痛と悲しみからの復興の様子を伝えている。

そこに、私は、
一つの抜け落ちている視点を付け加える。
何故なら、
地震がそうであるように、大災害と戦乱は、必ず襲来する。
従って、その危機を克服するために、
次のことを検証し続けることは死活的に重要であるからだ。
それは、
自衛隊が如何に出動し如何に展開されたか、
である。

はっきり言って、
阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も、
ともに、申し合わせたように、
内閣総理大臣は、
アホでバカで無能な左翼であり責任を取らない人種であり、
いない方がよかった。
もし、そこが戦場であり、
その戦場に、ああいう総理大臣が偉そうにうろうろしたら、
射殺されてしかるべきであった。
しかし、
自衛隊は、
阪神淡路大震災で、総理大臣の無能によって初動に遅れ、
中部方面総監が無念の涙を流した経験から
覚悟を固めていた。
そして、発災に当たり陸幕長火箱芳文陸将は、その覚悟を直ちに実践した。
即ち、陸幕長は、地震直後、次のように決断し命令を発した。
「いずれ大臣、統幕長から正式命令が来るが、
それを待つことなく直ちに準備せよ。」
そして、
自衛隊創設以来最大の十万七千の大動員が極めて迅速に実施された。
その結果、次の通りになった。
阪神淡路大震災の際、
自衛隊は初動に遅れたので、
生存者救出数は、
警察三千四百九十五人、
消防一千三百八十七人、に対し、
自衛隊百六十五人に留まった。
しかし、
東日本大震災における生存者救出数は、
警察三千七百四十九人、
消防四千五百十四人、に対し、
自衛隊一万九千二百八十六人であった。
実に全生存者の七割を自衛隊が救出したのだ。
以上の事実は、
自衛隊の動員と展開が
災害時の国民の生死を分けることを示している。
従って、ここが急所であり、この点検が死活的に必要だ。
従って、東日本大震災を振り返るに当たって、
我々は、
自衛隊員の苦闘に感謝し殊勲を讃えねばならない。
しかし、我が国の政界、マスコミ界では、ここが抜け落ちている。

そこで、
被災地のまっただ中にあり家族共々自らも被害を受けた
多賀城に駐屯する陸上自衛隊第二十二普通科(歩兵)連隊の隊員の手記と、
木更津に駐屯する陸上自衛隊第一ヘリコプター団の
世界の軍人にあっと言わせた、
特に日本にいたアメリカと中共将官が驚いた
福島第一原発の破壊された原子炉建屋の上空にホバリングして
約三十トンの水を落とした作戦行動について書いておきたい。


多賀城に駐屯する陸上自衛隊第二十二連隊の
連隊長國友昭大佐(一佐)と隊員九百名は、
駐屯地が水没し殉職者をだしているなかで、
十万七千の自衛隊が救助した総数約二万人のうち、
およそその四分の一にあたる
四千七百七十五人の命を救った。
國友連隊長は、
災害後七十二時間以内の救出を目指し、
隊員を家族のもとに帰さず、救助活動に没頭させたのだ。
彼が、家族の安否が確認できない隊員を一度帰したのは五日後であった。
一人の隊員は次の手記を残している。

「私の妻も息子を救助に向かう途中で津波に襲われ車もろとも流されました。
その情況を私が知ったのは更にその後、三十分後でした。
まだその時、細部任務を付与されていたわけではなく、
携帯で連絡をとれた時の妻の『助けて・・・』という
寒さと恐怖が入り混じった心のそこからの悲鳴の叫びを聞いた瞬間、
私の中で迷いというか、このまま部隊を出て、
一分一秒でも早く妻の所へ飛んでいきたいと思いました。
そして、その心の苦痛から答えを探していた時、
再度妻から連絡があり、
『大丈夫だから、他の人を助けてあげて』。
その言葉に我に返りました。そこからはもう迷いはありませんでした。
・・・最後に、
今まで陰ながら支えてくれた妻と息子に御礼を言いたいとおもいます。
本当にありがとう。」

同時期、
出動命令を待つ大阪信太山駐屯の第三十七連隊の隊員から私に次のメールが届いた。
「お願いがあります。全自衛隊に出動を命じて下さい。
道路の泥一つでも、おにぎりの一つでも、トイレの掃除でも、毛布一枚でも、コップ一杯の水でも、何か一つでも、協力したいです。
今は駐屯地で待機しています。ただの穀潰しです。
今まで養ってもらった恩返しがしたいです。」

この時、出動した自衛官だけではなく、
自衛隊員が、同じ気持ちで出動命令を待っていたのだ。

次に、福島第一原発の破壊された原子炉建屋からの放射能飛散鎮圧作戦について記しておきたい。
地上における
私の中学高校の後輩である吉田昌郎第一原発所長と東京電力の部下達
そして、自衛隊員と消防隊員達の決死の原子炉冷却による作業によっても
メルトダウンを防ぎ放射能を鎮圧することができなかった。
このままでは、日本は、
北の人が住める日本と、中部の人が住めない日本と、南部の人が住める日本の
三つに分断されるのではないかとの恐怖が増大していた。
そして、
国際社会も、日本が放射性物質の放出を止められるのか見守り始めた。
放射性物質の放出を止められない日本を国際社会が許すはずがなく、
福島第一原発鎮圧に日本の存亡がかかってきた。
この時、私は、
日露戦争の国家の存亡がかかった旅順要塞攻略を思い浮かべた。
福島第一原発が難攻不落の旅順要塞に思えたのだ。
そして、このままでは、
三千名の白襷隊による旅順要塞への肉弾突撃作戦と同様の、
決死隊による死を覚悟した原子炉建屋への進入による冷却作戦敢行しかなくなるのではないか、と思い始めた。
事実、習志野第一空挺団の団長だった火箱芳文陸幕長は、
部下であった空挺団員から、
「団長、何かに使って下さいよー」と言われた時に、
「おー、いずれお前らを原子炉に突入させるからなあ」と応じている。
火箱陸幕長は、後に、次のように言っている。
「あいつらだけ死なせるわけにはいかないと思っていました。
オレが行く、オレが先頭に立つ。
六十年以上生きたから、放射能を浴びてもいいし。」

水素爆発を起こして上部が吹き飛んだ福島第一原発の原子炉建屋には
偵察ヘリによる測定で「割り箸をたてたように」放射能が出ていた。
地上からの原子炉建屋への接近と冷却に失敗を繰り返した後には、
空から水を落として冷却する作戦が立案された。
三月十六日が終わる直前の午後十一時三十分、
宮島俊信中央即応集団(CRF)司令官は
隷下の木更津駐屯の第一ヘリコプター団の金丸章彦団長に
「あした撒け」
と命令した。

この作戦を知ったアメリカ軍の将官は、
「人の命をなんとも思わないようなことをするな」と言った。
上部が爆発で吹き飛び煙を上げる灼熱の原子炉に真上から水を落とせば、
何が起こるか誰も予測できなかった。
数トンの水が一瞬にして気化すれば火山の噴火と同じ巨大な気化爆発が起こるだろう。
しかし、第一ヘリコプター団の隊員は、
全員自分こそ原子炉の上に行きたいと思っていた。
そして、争いが起こった。
「独身のお前は止めろ、オレが行く、オレには子供がいるからなあ」
「嫌だ、オレが行く」と。
その末に、翌三月十七日午前八時五十六分、
仙台の霞目駐屯地から大型ヘリCHチヌーク二機編隊が飛び立ち、
午前九時四十分から十時までの間に
四回にわたり原子炉の真上から合計約三十トンの水を原子炉に投下した。

このヘリによる放水の映像は、全世界に流れた。
すると、東京市場の株価が下げ止まったのだ。
日本は頑張っている、大丈夫だと世界が判断したのだ。
放水終了の二十分後に、菅総理大臣と電話で協議したアメリカのオバマ大統領は、
「テレビで見てたよ、素晴らしい」
と菅に言った。
また、宮島CRF司令官は、
救援の為に東日本に来ているアメリカ軍が本気モードに入っていくのを感じた。

後日、異動で第一ヘリコプター団から中部方面総監に帰ってきた
金子章彦陸将補と再会したとき、私は、思わず、
「素晴らしかった、よくやってくれた、ありがとう!」と言った。
あのCH47チヌークによる原子炉への空からの水投下は、
日本ではあまり関心を引かなかったが、世界に強烈な印象を与えていたのだ。
中部方面総監部の廊下で再会を喜ぶ私の所に、
金丸さんの友人の将官が近づいて次のように言った。
中共軍の将官が、あのヘリによる原子炉への水投下を見て、
私にこう言いましたよ。
日本人は、昔と全く変わっていないねえ。
もし、中共が日本に照準を定めて核弾道ミサイルの発射の準備をすれば、
日本人は間違いなく、
飛行機に爆弾を積んでミサイルに突っ込んでくると思う。」


以上の通り、
東日本大震災における自衛隊の勇戦奮闘は、世界に強い印象を与えている。
これは、単なる自衛隊に対する評価にとどまらず、
日本人に対する敬意ともなっているのだ。
従って、
三月十一日を機に点検すべきことで、
自衛隊の出動と行動に関する点検と、これからその出動と行動は如何に為されるべきであるかの反省を忘れてはならない。
その意味で、一点、申しておきたい。
それは、何故、孤立した大島や孤立した地域に、
速やかに陸上自衛隊の精鋭である空挺団を降下させて救援しなかったのか、
また、海上自衛隊の「おおすみ」などの空母型護衛艦を使って
海から大島に上陸しなかったのかということだ。
大島に最初に上陸したのはアメリ海兵隊強襲揚陸艦だった。
これは情けないではないか。
この一点を見ても、我が国には強襲揚陸艦が必要なのだ。
東日本大震災は、このことを我らに知らしめ要求しているのだ。

なお、最後に記しておきたい。
平成二十三年三月十四日から七月一日まで、
十万七千の自衛官を率いて東日本大震災の救出救援活動を見事に指揮した
総合任務部隊指揮官の君塚栄治東北方面総監は、
被災地視察の行幸啓において松島基地自衛隊機でご到着の
天皇皇后両陛下に対し、
野戦服と鉄兜姿で正対して敬礼してお迎えした。
これは、戦後史と自衛隊史に残る画期的なことであった。
憲法九条に自衛隊を書き入れる改正をするとか議論しているが、
紙に書こうが書くまいが、
既に、東日本大震災において、
自衛隊員達は、自衛隊の優秀さと存在の意義を
天皇陛下と国民と世界に対して雄弁に示しているではないか。
この歴史に残る天皇陛下への敬礼を為した
君塚栄治陸将は、
平成二十七年に六十三歳で亡くなられている。
まことに惜しいことである。
彼のご冥福を祈って本稿を閉じる。

本稿は、
火箱芳文著「即動必遂」と瀧野隆浩著「ドキュメント自衛隊東日本大震災」を参考にした。

 

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