八月にノモンハンの英霊を甦らせよう。

令和1年7月30日(火)

毎年八月に入ると、テレビから、
昭和二十年八月十五日に、「玉音放送」として国民に伝達された
昭和天皇の「大東亜戦争終結に関する詔書」が流され、
懐かしい昭和天皇の玉音を聞くことができる。
とはいえ、テレビの玉音の放送は、
詔書冒頭の

朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、
非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、
茲に忠良なる爾臣民に告ぐ
朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、
その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

で終わる。
しかし、国民にその冒頭だけを繰り返し聞かせ以下を無視することは
一種の歴史の隠蔽である。

この「大東亜戦争終結に関する詔書」の
決定的な歴史的意義は、
昭和天皇が、原子爆弾の使用は
「人類の文明をも破却する」ものであり、
これを回避するために四国共同宣言に応ずるのだと
国民と世界に宣言されたことであり、
そのうえで、国民に、
「國體を護持し得て」と宣言され、
続けて

確く神洲の不滅を信じ、
任重くして道遠きを念ひ総力を将来の建設に傾け、
道義を篤くし志操を鞏くし、
誓て國體の精華を発揚し世界の進運に後れざらむことを期すべし、
汝臣民其れ朕が意を体せよ

と国民を励まされたことである。
原子爆弾がはじめて人類の頭上で炸裂して、
広島長崎のおびただしい無辜が殺傷されたとき、
これが
「人類の文明を破却するもの」
と、その本質を見抜かれた国家元首は、
世界で昭和天皇だけである。
これが「玉音放送」の注目すべき根幹である。
原爆を落とした方のトルーマン大統領は、戦艦オーガスタの艦上で、
広島への原爆投下成功を知らされ、
わぁと両手を挙げて喜んだが、
その時もその後も、人類の文明に関して彼の頭が回った形跡はない。
これ、彼我の天地の差と同じ格差である。
 
次に、同じ八月のことで、
実相を知って我が国の歴史を甦らせねばならない要点が隠されている。
それは、昭和十四年五月三日から九月十五日までの間の、
遙か満州の西の外蒙古との国境付近のノモンハンの草原で戦かわれた日ソ戦だ。
この戦闘は、
五月四日に始まり同月三十一日に終結する第一次ノモンハン事件
八月三日から九月十五日までの第二次ノモンハン事件に分けられるが、
八月の戦闘をピークとする。
日本の兵力は熊本の帝国陸軍第二十三師団(師団長小松原道太郎中将)二万、
ソビエト軍は機械化部隊二十三万(司令官ゲオルギー・ジューコフ中将)。
 
このノモンハン事件は、
満州と蒙古の国境線を巡る小競り合いに、
好戦的な帝国陸軍日露戦争当時のままの装備で出て行って、
近代化されたソビエト軍に徹底的にやられたという図式で語られてきた。
それ故、ノモンハン大東亜戦争の大敗北の予行演習のように捉えられてきた。
司馬遼太郎流に言えば、
ノモンハン事件は、日露戦争に勝利した輝かしい「明治という国家」とは
似ても似つかない愚劣な「昭和という国家」が、
負けるべくして徹底的に負けた愚かな戦闘だったということになる。
 
確かに、第二十三師団は動員兵力の八割以上を失った。
これに対してソ連軍では、
スターリンの粛正を恐れる将校が過小な損害と過大な勝利を記録していた。
ところが、
ソビエト体制崩壊とともに公開された公文書によってソ連軍の大損害が明らかになる。
それは、次の通りである(小田洋太郎、田端 元著「ノモンハン事件の真相と戦果ーソ連軍撃破の記録ー」有朋書房および福井雄三著「世界最強だった日本陸軍PHP研究所)。

戦死者、日本軍八七四一名、ソ連軍九七〇三名
負傷者、日本軍八六六四名、ソ連軍一万五九五二名
死傷者合計、日本軍一万七四〇五名、ソ連軍二万五六五五名
破壊された戦車、日本軍二九台、ソ連軍八〇〇台
撃墜された戦闘機、日本軍一七九機、ソ連軍一六七三機
 
以上が二万の日本軍第二十三師団と二十三万のソ連軍機械化部隊の戦闘の結果である。
未だ隠れている文書の発見によりソ連軍の損害はこれよりも増加する可能性があるが、
ジューコフ将軍率いるソ連軍は、
ノモンハンで攻撃続行不能に陥ったことは明らかである。
同時にソ連軍と差し違えて第二十三師団も意気盛んながら攻撃続行困難となったので、
我が国の大本営は、八月末にノモンハンへ十万人の派遣を決定する。
 
それにしても、
一個師団二万の日本軍が、
十倍以上の二十三万のソ連軍機械化部隊を潰滅させているのだ。
ノモンハンで戦った日本軍は、
戦後の歴史家や作家が異口同音に言っている日露戦争と同じ旧態依然の日本軍ではない。日本軍の戦闘機に、
ソ連軍の戦闘機は太刀打ちできなかった。
ソ連軍の戦車は、
日本軍戦車に次々と破壊されたし、日本軍砲兵の高性能速射砲の絶好の標的となった。
その上で、
日露戦争の旅順要塞に突入した白襷抜刀隊同様、
訓練で練り上げた銃剣術を主体とする日本軍歩兵の
白兵戦における強さは世界一であった。
また、身長百八十センチ、体重七十五キロの
篠原弘道准尉(戦死後少尉、大正二年生)は
ソ連軍戦闘機五十八機を撃墜し八月二十七日に戦死した。
この敵機撃墜数は大東亜戦争でも破られていない。
彼は東洋のリヒトホーヘンと呼ばれホロンバイルの荒鷲と讃えられた。
私の叔父、東儀正博は、
陸軍航空隊で、この篠原弘道少尉の一年先輩であった。
かくの如く
ノモンハン日本兵一人一人が、
七百騎で二十万の足利軍を迎撃した湊川楠木正成のように戦ったのだ。

大戦後、
独ソ戦を勝利に導いて英雄となったゲオルギー・ジューコフ元帥は、
西側の記者から、
何処の闘いが一番苦しかったかと訪われ、
日本軍を相手にしたノモンハンの闘いが一番苦しかったと答えた。
 
そこで、このノモンハンにおける日本軍の強さとソ連軍の潰滅を前提にして、
ソ連の独裁者スターリンが如何に動いたかをみたい。

このスターリンのユーラシアの東と西を観る動きは、
現在のプーチンの動きの本質を知る絶好のヒントである。

まずスターリンは、八月二十三日、
ドイツと独ソ不可侵条約モロトフ・リッペントロップ協定)を締結して
西のナチスドイツという脅威を抑える。
しかし同じ八月、
我が国のノモンハンへの十万人派遣の動きに、
二万の第二十三師団だけでも
二十三万のソ連軍機械化部隊が潰滅に近い打撃を受けたのに、
さらに、十万人の日本兵が来れば外蒙古全体が崩壊し、
己の政権自体が危うくなると震え上がったスターリンは、
ドイツのリッペントロップ外相に日本との仲介を頼み込み、
九月十五日に、日ソ停戦協定にこぎ着ける。
そのうえで、
この日ソ停戦の二日後、スターリンは、
ソ連ポーランド不可侵条約を破って、安心して西のポーランドに侵攻していく。
ドイツは、既に九月一日にポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まっていた。
スターリンは、ドイツとポーランドを分割するために、
ドイツに遅れることなくポーランドに侵攻する必要があった。
そのためにスターリンは、
東のノモンハンで日ソ停戦協定の締結を急いだのだ。

以上のユーラシアの東西におけるソ連の動きを眺めて
スターリンの野望即ちコミンテルンの戦略は何かと観れば、
それはソ連を中心にして、
ユーラシアの東西に共産ソビエトの勢力を拡張し世界を共産化することである。

その為に、コミンテルンは、
帝国主義列強同士を戦わせ、
その鉾先をソ連に向けさせないように、日米の中枢にスパイを送り込む。
我が国で発覚したスパイはゾルゲと尾崎秀実であり、
アメリカでは対日最後通牒を書いたハリー・ホワイトと
F・ルーズベルト大統領の側近アルジャー・ヒスだ。

コミンテルンスターリンソビエト戦力拡張の具現化が
西ではポーランドおよびバルト三国侵攻であり、
東では外蒙古侵攻とノモンハンにおける満州の日本軍潰滅である。
スターリンは、外蒙古の人口八十万人のうち、
その六%十七人に一人を粛正で殺しながら外蒙古共産党支配体制をつくっていた。
従って、スターリンにとっては
ノモンハン事件外蒙古満州の国境線の問題ではなく、
外蒙古全体を失うか否か、
外蒙古を失えば、自分が失脚して粛正されるという重大問題であった。
また、国境紛争をつくって、
これを口実に大軍を動員して支配を拡大強化するのは
ソ連の常套手段である。
それ故、スターリンは、
ゲオロギー・ジューコフを司令官とする二十三万の機械化部隊を
ノモンハンに送り込んできたのだ。
このように観れば、
ノモンハン事件は、
コミンテルン即ちスターリンのユーラシアの東への共産主義膨張路線を
そこで、止めるか突破されるか、
満州全体への共産主義拡張を止めるか否かの問題であった。

このノモンハンの闘いの重大性と
日本軍の勇戦奮闘を観ない者が、
戦後の自虐史観に迎合し洗脳され視力を失ったのだ。
そして、視力と思考力を失ったまま、
歴史小説を書き歴史論文を発表した。
それが、またよく売れた。しかし虚妄である。
この意味で、
ノモンハンは我が国の歴史回復の起点である。
 
スターリンは、ノモンハンの戦闘で、日本軍を恐れた。
それ故、昭和十六年四月、
念を入れて日ソ中立条約を締結する。
その二ヶ月後に独ソ戦が勃発した。
しかし、我が国は条約を守り北進(対ソ侵攻)しなかった。
そして、フランスのビシー政府の同意を得て南部仏印に進駐した(南進)。
この我が国が北進を断念し南進を実施したことに関し、
ゾルゲと尾崎秀実の、我が国中枢における謀略があったことは確かである。
ゾルゲからの日本北進せずの情報を得たスターリンは、
ゾルゲに対して最高の賞賛の言葉を発した。

イギリスのチャーチルは、
その時、日本がソ連に攻め込んでいれば、
第二次世界大戦において日本が勝者になる唯一にして最大の好機だった、
と回顧した。
その後、スターリンは、
昭和二十年二月、
ヤルタでルーズベルトチャーチルから対日参戦を求められた。
しかし、スターリンは八月に入るまで参戦しなかった。
ノモンハンの経験から日本軍を恐れていたからだ。
その結果、北海道本島にソ連軍は上陸できなかった。
その原因は、
千島最北端の占守島守備隊が、頑強に抵抗して
八月十八日に上陸してきたソ連軍に壊滅的打撃を与えたからである(占守島の戦闘)。
ノモンハンと千島最北端の占守島の英霊が
北海道を救い、
日本を救ったのだ。
しかし、
国後、択捉、歯舞、色丹そして樺太が、
スターリンにやられた。
必ず、奪還しようではないか!

        (本稿は、「月刊日本」八月号に送付した原稿に加筆したものである)

 

 

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