パレンバン、空の神兵空挺降下作戦は、救国の歴史回復の起点

令和2年2月15日(土)

七十八年前の昭和十七年二月十四日
09:00、
マレー半島南部のジョホールバル州クルアン飛行場を、
落下傘降下兵三百三十九名が搭乗した輸送機、
投下する物流箱及び武器弾薬を搭載した輸送機
そして、護衛の隼戦闘機、合計八十八機が、南を目指して飛び立った。
機内の落下傘降下兵らは、離陸二十分後、
眼下に、山下奉文中将が指揮する第二十五軍の総攻撃を受けて、
軍港の燃料タンク爆発炎上による断末魔の黒煙を数条挙げてのたうち回る
陥落一日前のイギリスのアジア支配の牙城シンガポールを見ながらさらに南下し、
11:26、
オランダ軍の対空砲火が火を噴くスマトラ島パレンバン周辺のジャングルに、
0.5秒間隔で落下傘降下した(戦死三十九名)。
そして同日深夜、落下傘兵の挺身隊は、
パレンバン飛行場、ロイヤルダッチシェル製油所、スタンダード製油所を制圧した。

当時の我が国の石油消費量は年間500万トン、石油備蓄量は770万トン。
従って、このパレンバンの製油所を確保することによって、
我が国は、
以後、三年半にわたる大東亜戦争を継続することが可能となり、
我が国が掲げた、人種差別撤廃、欧米の植民地支配打破という戦争目的を完遂し、
人類の文明史に大転換をもたらした。
この転換が無ければ、
アメリカに黒人大統領は誕生せず、
イギリス王室に黒人の血は入らなかった。
この文明史的転換をもたらした者は、
我が帝国陸軍の三百三十九名の落下傘降下挺進隊員であった。
この作戦に参加した挺進第二連隊第四中隊の小隊長奥本 實中尉は、
手記を、息子の奥本康大氏に遺した。
息子は父の死後、その手記を次の通り出版した。
是非、読まれたい。

「なぜ大東亜戦争は起きたのか
インドネシアパレンバン落下傘部隊の記録
空の神兵と呼ばれた男たち」
高山正之、奥本 實 共著、ハート出版  平成28年12月23日第一刷

そこには出撃前の隊員の様子と、
任務達成後の隊員の状況が次の通り記されている。
(出撃前)
「総ての挺身隊員は、士気高く、ファイトに炎え切っている。
誰人も『われこそ落下傘挺進の先陣を承らん』と血気に溢れていて、
残置などを命じたならば、それを恥じて自爆しかねない。
それを心配して、各幹部は、各自の弾薬、手榴弾などの実弾を
決行前夜の遅くまで手渡さなかったほどである。」
(任務達成後)
「戦死した戦友の勇敢な働きを思い浮かべて不覚にも泣き出す兵。
ずっと前進していた部隊が、一旦停止すると、必ず感傷が襲うのである。」

私は、この奥本實中尉の手記ほど、
我が国の武士、将兵の内面と実相を的確に伝えるものはないと感じる。
死ぬことを全く恐れない将兵が、
戦いが済めば、
戦死した戦友を思って泣く。
これ、山岡鉄舟が言う、
もののあはれ」を知る武士道そのものの姿である。
その奥本 實中尉は、
出撃前に日の丸に次のように大書して部下に伝えた。
「本日ノ給養ハ靖國ニ於テス」
つまり、戦死して靖國に行ってからゆっくり休んで飯を食べようと告げたのだ。
まことに天晴れな武人の指示ではないか。

さて、
斯くの如き人類史に卓越した転換をもたらした
剽悍決死のパレンバン落下傘挺進作戦の記念すべき日である
二月十四日は、
いつのまにか、
「バレンタインデー」となって
パレンバン」は忘れられていた。
そこで、奥本康大氏は、
この日を、「パレンバンデー」として
歴史(記憶)を取り戻さねばならないと思い決し、
先の、お父上である奥本 實中尉の手記出版の後、
「空の神兵顕彰会」を結成し、
二月十四日を「パレンバンデー」として東京で集会を開催されてきた。
昨日二月十四日、東京の憲政記念館
「空の神兵顕彰会」主催の「パレンバンデー」行事、
大東亜戦争は聖戦だった!」が開催されたので参加した。
久しぶりに、田母神俊雄閣下と同じ会で席を共にした。

私は、次の通り話した。
(1)現在の我が国を取り巻く内外の厳しい情勢のなかで、
 歴史の回復こそ死活的に重要である。
 何故なら過去(歴史)は過ぎ去った日付けのところにあるのではなく、
 我々と共にあるからだ。即ち、我々は過去(歴史)であるからだ。
 それ故、過去(歴史)を失った我々は痴呆症と同じで国家を維持できない。
 しかるに現在、戦前と戦後は断絶させられている。
 従って、戦前と戦後の連続性の回復こそ歴史の回復であり急務なのだ。
 では、戦前と戦後の断絶とは何か?
 それは、子が父の歴史を知らないということだ。
(2)そこで、奥本 實そして奥本康大親子の為してきたことを見よう。
 父はパレンバン落下傘降下挺進作戦を戦い、
 子が父のパレンバンの戦いを現在に甦らせてきた。
 これは、まさに歴史の回復であり、
 日本回復への道を拓く奥本父子二代の偉業である。
(3)その上で、さらにもう一つ、
 何故、子が父の歴史を知らなくなったのか、その元凶は何かを考えよう。
 その元凶は、GHQの日本占領統治方針そのものである。
 GHQは、日本を二度と再び強くならないようにするために、
 「日本は悪い戦争をした悪い国で、
 その元凶は日本軍国主義者と帝国陸海軍であり、
 この軍国主義者と帝国陸海軍によって日本国民は戦争の惨禍を与えられた」
 と思い込ませる宣伝・洗脳活動を実施したうえで、
 その宣伝・洗脳効果を未来永劫固定させる為に
 「日本国憲法」(マッカーサー憲法)を制定した。
 このマッカーサー憲法によれば、
 戦前の日本は人類普遍の原則に反する国だから
 戦前の「憲法及び法令詔勅は排除する」 とあり(前文)、
 さらに陸海空軍その他の戦力を保持せず、交戦権を認められないとある(9条)。
 従って、現在の歴史を剥奪され
 国を守る意思と力を失った日本が出来上がったのだ。
 このままでは我が国は滅びる(中共に付け入られる)。
(4)では、どうすればいいのか。
 それは単純にして簡単だ。
 無効なものを無効と言い切れば良いだけのことではないか。
 即ち、「日本国憲法マッカーサー憲法)」は無効だ。
 この宣言が救国の一手である!
この最期の一手で、
 国家と民族を守るためのあらゆる決断を実践することができる。
 最後に、
 あいつら(GHQ)が書き残した明白な無効の証拠条文を紹介しよう。
 それは、二十一条と三十九条だ。
 二十一条は表現の自由の次に「検閲の禁止」を定め、
 三十九条は「事後法の禁止」を定めている。
 もし、「日本国憲法マッカーサー憲法)」が、日本の憲法なら、
 これが施行された昭和二十二年五月三日を期して、
 直ちに
 GHQが行っていた検閲は廃止され、
 マッカーサーが行っていた東京裁判極東国際軍事裁判)は停止されたはずだ。
 しかし、検閲は続行され、
 東京裁判は翌二十三年十一月、事後法で有罪判決が出され
 十二月二十三日、その判決により東条英機以下七人は、絞首によって殺害されている。
 これこそ、東条英機等七名が命をかけて我らに示している
 「日本国憲法マッカーサー憲法)」無効の
 明白な証(あかし)ではないか。