ある自衛隊の知られざる沈黙の行動

平成29年11月25日(土)

先の時事通信で、
一九七七年(昭和五十二年)九月と十一月の、
北朝鮮による
能登半島からの三鷹市ガードマンの久米裕さんと
新潟からの十三歳の横田めぐみさんの拉致に関し、
まさにその時、我が国政府(福田赳夫内閣)は、
その二人の失踪が、北朝鮮の拉致によるものであることを察知していたと書いた。
つまり、能登半島と新潟の現場の警察が、まず北朝鮮による拉致だと察知し、
その情報が東京に届き、東京の政府が察知したのである。
しかし、
この北朝鮮という国家による我が国家主権の侵害という
「戦争」に対して、
時の我が政府は、国民を救う為の適切な対抗措置を断行することができないが故に、
もしくは、その対抗措置という発想自体がないが故に、
国民が知らないのを奇貨として「不問」に付して葬ってきた。
国民が知らないのを奇貨として
韓国が竹島を占拠したことを見て見ぬふりをしたのと同じである。
そして、現場で察知した警察官をはじめとした人たちも、
「おかしい」と思いながらも黙して年月が過ぎていった。
ただ、日本海側に面した府県の沿岸沿いの住民の間では、
この海岸から人が忽然と連れ去られるという「人さらい」の口伝が広がっていた。

こういう、
国民を救わず、国土を守らない、
戦後体制即ち日本国憲法体制による冷酷な政治の不作為のなかで、
封印され、社会に知られることなはなかったが、
次に、記すように、
国民の命を救うための行動が為されていたことを知っておかねばならない。
この事例は陸上自衛隊によるものであるが、
もちろん、知られてはいないが警察官による多くの事例があることも確かである。

平成十四年九月、
訪朝した小泉総理に対し、北朝鮮金正日が日本人を拉致したことを認めた。
そして、これを、我が国報道機関が衝撃的な事実として我が国に伝えた。
これを報ずるTVを息子とともに見ていた
帝国陸軍士官学校五十八期の元自衛官(故人)が、

「とっくの昔に、北朝鮮が日本人を拉致していることは分かっていた」

と言い、
北朝鮮の日本国民拉致を察知してから、
その北朝鮮から国民を救うために、
何をしたかを、
次の通り息子に語り、
その息子(友人)から私が聴いた。

昭和三十年代から四十年代初頭、
夜間、訓練名下に、密かに部隊を日本海沿岸地帯に出動させ、
それを指揮して、北朝鮮工作船が沿岸に接近するのを待ち伏せて、
至近距離に来た工作船に発砲を命じた(但し、空砲)。
工作船は慌てふためいて闇の日本海に逃げ去った。

この訓練名下の部隊行動を何度敢行したのかは黙して不明ながら、
この方は、四十五歳の時、大佐(一佐)で自衛隊を退官した。
その時、自衛隊から、
この行動を公表しない旨の宣誓書に署名を求められ、署名して退官したという。

東日本大震災と巨大津波の際、
多くの人々が、
津波に向かって走ってゆく警察官の姿を見ている。
また福島第一原発の破壊された原子炉の上で停止して
約40トンの水を灼熱の原子炉に落としたCH47チヌークの姿を世界が見た。
これを見た中共将官が、
日本人は戦前から今も、全く変わっていない、簡単に命をかけてくる、
と驚嘆し、
アメリカ軍の将官が、
人の命をなんとも思わない作戦をするべきではない、
自衛隊の指揮官に語り、
しかし、自衛隊が、それを敢行したのを見て、
アメリカ軍は、目の色を変えて本気モードで救援活動に入った。

この東日本大震災の警察官と自衛隊の決死の姿が、
危機における日本人の本質を世界に示し、
中共北朝鮮に対して、
無言の強力な抑止力となったように、
この黙して語らなかった帝国陸軍中尉にして自衛隊の指揮官の行動は、
北朝鮮に対する強烈な抑止効果となって、
それがなければ、拉致されたであろう、
多くの日本国民を救っている。

拉致に関して、我が国政府の冷酷で許しがたい不作為は、
いまや明らかであるが、
その政府の不作為の重圧下で、
国民を救う努力を続けた無名の警察官や自衛官がいたことを忘れてはならない。

 

 

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