再び、諜報工作活動と武力行使の両輪を回す時代が来た

平成30年3月10日(土)

三月九日、拓殖大学講堂で行われた故小田村四郎拓殖大学総長の告別式に参列した。
小田村先生は、
東京の私の後援会である「日本再生同志の会」の会長をお引き受けいただき、
長年お世話になった私の恩人で、
旧臘十二月に亡くなられた。
小田村先生は、
吉田松陰が、斬首される直前に書き残した「留魂録」の末尾に、
「同志諸友のうち、小田村・中谷・久保・子弟兄弟等の事、
鮎沢・堀江・長谷川・小林・勝野等へ告知しおきぬ。」
と記した、「小田村」、即ち小田村伊之助の御子孫である。

さて、九日午前十一時前、
告別式場に向かうべく、茗荷谷の駅から拓大に歩く途中、
明石元二郎陸軍大将・台湾総督のお孫さんで、
今上陛下のご学友である
明石元紹氏にお会いしたので、
話をしながら式場に向かったのであるが、
話題は、もっぱら、
御祖父の明石元二郎大将(日露戦争時は大佐)のことと、
そのご長男で元紹氏のお父上である
明石元長氏のことになった。
話題が、この二人のことになったのは、
私が、期せずして、お会いする直前の
三月八日の時事通信で「奉天会戦」について書き、
三月六日と七日の時事通信で、
軍備増強を続ける中共の、我が国と台湾への侵攻の危機について書いていたからである。

明石元二郎大佐は、
日本軍二十四万が、黄塵の奉天で、
三十万を超えるロシア軍と悪戦苦闘を続けていたとき、
一人、ヨーロッパで活動し、
「明石一人で、満州の日本軍二十万に匹敵する戦果を上げている」
とドイツのウィルヘルム二世に言わしめた軍人であり、
長男の明石元長氏は、
台湾を中国共産党中共)から守るために、
昭和二十四年六月、陸軍中将で元北支那方面軍司令官根本博を
たった二十四トンの小舟で、
密かに宮崎県の延岡から台湾の基隆に送り込み、
共産党軍と戦う蒋介石の軍事顧問とした人物である。

本日三月十日、即ち、明治三十五年(一九〇五年)三月十日は、
午後五時頃、大阪歩兵第三十七連隊第二大隊が、
奉天城に突入して「日章旗、日の丸」を掲げ、
大山巌満州軍総司令官が、「奉天会戦の勝利と終結」を宣言した日である。
翌年、この日は「陸軍記念日」となる。
とはいえ、
ロシア軍三十万が奉天から退却したとはいえ、
ロシアは未だ現役兵を二百万擁していた。
これに対して日本軍は遙かに劣勢の二十万であり、
しかも前線で先頭に立ち部隊を率いて戦う少尉から大尉までの将校は
既に殆ど戦死して補給は困難であり、国家も財政的に消耗し
我が国は軍事的にも財政的にも産業力的にも戦争を継続すること困難になっていた。
しかし、
ロシアも、我が国とは別の理由で戦争を継続することが困難な情況に陥っていたのだ。
このロシアの情況を作出していたのが
明石元二郎大佐の欧州での工作活動であった。
ロシアではこの時、
第一次ロシア革命が進行していたのである。
即ち、一月、
サンクトペテルブルクで、
ロシア聖教の神父ガボンに率いられた
皇帝ニコライ二世に「日露戦争停止」などの請願に向かうデモ隊に
軍隊が発砲して多数を射殺した「血の日曜日事件」に端を発した反政府感情は、
直ちにモスクワでの大規模な暴動と略奪を引き起こし、
以後、ロシア全土に波及する。
これが第一次ロシア革命である。
そして、この革命は、戦艦ポチョムキンの反乱にみられるように軍隊にも及ぶ。
従って、この事態は、満州のクロパトキンに率いられたロシア軍の士気を破綻させ、
兵士の逃亡が相次いでいた。
奉天の会戦においてもロシア軍から失踪者が二万九千三百三十名もでている。
これは、満州のロシア総兵力の約一割である。
そのうち、二万一千七百九十一名は日本軍の捕虜となった。
この第一次ロシア革命に、
明石元二郎大佐が、如何に関与していたのかは、
秘密工作活動であるから全容は明らかではないが、
彼はジュネーブに滞在しているレーニンにも会っていたことは確かである。
また、陸軍が彼に、この工作活動の為、
当時の金百万円(現在の金額四百億円)を使わせたことも確かである。
ドイツのウィルヘルム二世の明石元二郎への評価が的確であろう。
さらに、明石元二郎の工作は、満州の日本軍総兵力よりも遠大な波を作った。
それは、一九一七年のレーニンとボルシェビキによるロシア革命ソビエト国家建国への波である。
私は、孫の元紹氏に、昨日、歩きながら、
ソビエト共産党で育ったプーチンは、明石元二郎閣下の墓に参るべきだ」
と言った。
日露戦争後の大正七年(一九一七年)、
明石元二郎は、陸軍大将となり台湾総督として台湾に赴任する。
そして、八田與一の台湾中部の嘉南平原の大規模な治水事業の為に
台湾総督府の年間予算の三分の一以上の資金を投入する。
また、現在に至るも台湾の最大の銀行である華南銀行を設立したり数々の施策を行う。
しかし、職務のために上京の途次、福岡で病の為に死去する。
死去の直前、
「余の遺体はこのまま台湾に埋葬せよ。
未だ実行の方針を確立せずして、
中途に斃れるは、
千載の恨事なり、
余は死して護国の鬼となり、
台民の鎮護たらざるべからず。」
と言いのこした。

彼の遺体は、遺言通り、
台北の墓地(現、森林公園)に埋葬され、
後に三芝郷(現、新北市三芝区)の福音山基督教墓地に移され埋葬されている。
私は、森林公園と移された福音山の墓地に参った。
現在、森林公園の墓地のあったところには大理石の碑が立てられており
「日本明石総督墓址」と刻まれ、
さらに日本語と台湾語で次の通り書かれている。
「日本九州福岡にて出生 
1917から1918まで台湾総督に任命される。
在任中福岡にて病没 享年五十六才」
福音山の墓地は、見晴らしのいい丘の斜面にある。
私は、数年前のよく晴れた日に、この墓地を訪れ、
そこに、持参した花を供えた。

明石元二郎死後、
時代は転変し、我が国は大東亜戦争で敗北し台湾から去る。
そして、我が国が去った後に、
父が、「死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」
と念じて眠る台湾が、
毛沢東共産党軍に滅ぼされる危機に瀕する。
その時、明石元二郎の息子元長氏が、
昭和二十四年六月、
陸軍中将で元北支那方面軍司令官であった根本博を台湾を救う為に送り込むのだ。
元長氏は、台湾を救える軍人は根本元軍司令官しかいないと思っていた。
終戦時、北支那方面軍司令官根本博中将は、
天皇陛下の大元帥としての
「自衛戦闘以外の作戦行動を中止せよ」
という大陸命を守り、
なだれ込んでくるソ連軍に対して、
断固とした徹底した自衛戦争を継続して、それを撃破して寄せ付けず、
満蒙から邦人を守りながら無事北京に到着して初めて戦闘を停止し、
蒋介石武装解除した軍司令官である。
この措置によって、邦人の死者はゼロである。
ソ連軍に対し早々に武装を解除してソ連軍のやりたい放題を許した関東軍の下での
ソ連軍に蹂躙された数十万邦人の死屍累々の悲劇・惨状を思えば、
これは、根本軍司令官に指揮された北支那方面軍の卓越した功績である。
明石元長氏は、
台湾を救う為に、
この根本博中将を台湾に送った。
そして、蒋介石の顧問となった根本博中将は、
国民党軍を指揮し、
明石元二郎と元長親子の願い通り、
金門に上陸してきた中共軍を包囲殲滅し、
毛沢東の台湾侵攻の野望を挫折させた。
明石元長氏は
明石元二郎台湾総督の死の間際の誓いを実現したのだ。
しかし、この時、根本を台湾に送った明石元長氏は、
その時、既にこの世の人ではなかった。
根本を台湾に送り出した年の夏、つまり直後、突然死去したのだ。
享年四十二歳であった。

以上、小田村四郎先生が、引き合わせてくれたように、
三月九日午前十一時前、
今上陛下のご学友である明石元紹氏にお会いすることができたので、
日露戦争を勝利に導き、台湾を護ると誓った御祖父明石元二郎台湾総督と
その誓いを実現した御父明石元長氏のことを記した。
この明石元二郎台湾総督と明石元長氏親子の功績と願いを知った上で、
我が国を取り巻く事態は、
再び、
日露戦争時の明石元二郎大佐や
終戦時の根本博軍司令官のように、
大陸と朝鮮半島の邦人、
即ち、拉致被害者を断固として救出し、
中共の背後で動乱を工作して習近平の統治機構を麻痺崩壊させ、
台湾と我が国自身を護らねばならない事態に直面していることを
自覚しなければならない。

 

 

www.n-shingo.com