「軍備増強とは教育改革即ち戦後平和教育からの脱却だ」

平成30年4月6日(金)

先の時事通信を、
現在の「平和のための戦略」は、「軍備の増強」である、という結論で締めた。
続いて、フェースブックで、
その「軍備増強」とは、自衛隊の増強に限るのではなく、
国民一人に一人が国を守るために戦う覚悟をもつことだと書いた。

そして、本日、四月六日、
産経新聞の「正論」で、
新保祐司氏の「明治の精神的苛烈さは廃れたか」を読んだ。
まことに深い重厚な論考である。
この論考は、
明治維新百五十年にあたり、
明治の精神についてさまざまな視点からの振り返りが必要であるのは、
「今日の日本人に欠落しているものの多くがそこにあるからだ」
と打ち出されている。
しかし、現在の「振り返り」は、
「今日の価値観や常識を突き破ってしまう精神の姿に震撼されることを避け、
現在的な視点から分析したり解釈したりしてりるにすぎないようである」
と、その浅薄さを指摘し、
明治維新の精神的苛烈さに、
こちらが打ち砕かれてしまうようなとらえ方をしなければ
明治維新から何も学べないのではないか」
という問題意識を表明している。
その上で、新保氏は、
吉田松陰という「明治維新の精神の典型」が、
日本人でありながら最早わからなくなっているのではないかと指摘している。
そして、その原因を、
現在の日本人は、明治維新の「坩堝」のような精神の激動を理解することができる
「精神の勁さ」を失ってしまったからだとし、
「外部から眺めているのでは何もつかめない」から、
「恐れ戦きて」明治の精神に対すべきであり、
その歴史と思想の「坩堝」に飛び込み、忍耐強く潜水し、
その底にある「日本文明を支える土台を構成しているもの」を掴み取らねばならない、
と結ばれている。

この新保氏の「正論」に記された論考に触発され、
今の急務である「軍事力増強」とは何かに関し、
「今日の価値観や常識を突き破ってしまうこと」を恐れず、
さらに記しておきたい。

軍事力増強とは、
自衛隊を強化増強することに尽きるのではなく、
(1)自衛隊を支える国民精神を、
現実に我が国が戦争を遂行した
明治維新から昭和二十年八月十五日までに戻すことである。
即ち、
「国の為に死ねる国民精神」
を取り戻すことである。
よって、
英霊を、戦争の時代に生まれた「不幸な犠牲者」と捉えてはならない。
英霊は、「国の為に死ねる国民精神」を実践した尊い先輩だと捉えるべきである。
従って、英霊の慰霊とは、
国家に緩急あれば、自分もまた国の為に死んで英霊の仲間に入ると誓うことだ。
以下は、私が立ち会って体験したことである。
平成二十七年十月二十四日、
海上自衛隊練習艦隊は、
ガダルカナルから百三十七柱の英霊のご遺骨を旗艦に安置して
東京の晴海埠頭に帰還してきた。
その時に、挨拶に立った厚生省高官は、
英霊に対し、「不幸な時代の犠牲者」という表現を使った。
翌日の十月二十五日、
昭和十九年十月二十五日は、関行男中佐ら五名が最初の海軍特別攻撃隊の「敷島隊」としてフィリピンのマバラカットを出撃し散華した日である。
それ故、この日、関中佐の出身地である愛媛県西条市において
関中佐ら敷島隊の慰霊祭が行われた。
その時、挨拶に立った地元の主催者の一人は、
期せずして、前日の晴海埠頭の厚生省高官と同じように、
関中佐ら五人を、不幸な戦争の犠牲者と位置づける挨拶をした。
以上、
英霊を、「犠牲者」として扱う現在の政府と民間の姿を目の当たりにした。
そのガダルカナル島からの帰還した百三十七柱英霊のご遺骨は、
晴海埠頭で厚生労働省職員の若い男女に渡されバスで厚労省の安置所に運ばれていった。
これ、我が国は、
英霊のご遺骨を身元不明の行路死亡者(行き倒れ)と同様に扱っているのである。
無礼である。
英霊のご遺骨は、制服の自衛官が守り運ぶべきであり、
千鳥ヶ淵戦没者墓園は、厚労省の所管ではなく防衛省の所管にすべきである。

(2)現在の間違った「シビリアンコントロール」の在り方を是正し、
シビリアンコントロール」とは、
軍を動かす決定は、
国民に対して最終的な政治的責任を負う民主的に選ばれた内閣総理大臣あるひは大統領がするという原則であることを確認し、
この原則を樹立して守ることが軍事力増強である。
よって、その前提として、
「軍政(アドミニストレーション)」と「軍令(オペレーション)」を明確に分離し、
現在のように、防衛省内局(文官)が軍令の領域にある部隊を監視し支配するのが「シビリアンコントロール」であるという間違った頭を是正しなければならない。

(3)自衛隊が動く原則を「ネガリスト」に転換する。
世界の軍隊は、「ネガリスト」で動いており、
これは、「法律に禁止されていなければできる」という行動原則である。
アメリカ大統領は、法律で禁止されていないので、
パキスタンにいるオサマビンラーディンを海軍特殊部隊によって殺し、
また、地中海にいる軍艦からシリアにミサイルをぶち込んだ。
これに対し、
警察の行動原則は「ポジリスト」であり、
これは、「法律に書かれたものはできる(書かれていなければできない)」という原則である。現在、自衛隊はポジリストで動かされている。
これでは、如何に優秀な装備品をもっていても戦闘できない。

(4)教育を取り戻すことである。
何故なら、
「軍の主とする所は戦闘なり。故に百事皆戦闘を以て基準とすべし。
而して戦闘一般の目的は敵を圧倒殲滅して迅速に戦捷を獲得するにあり。」
そして、これを実現する為には、
次のことに意を用いねばならない。
「必勝の信念は、主として軍の光輝ある歴史に根源し、
周到なる訓練を以て之れを培養し、
卓越なる士気統帥を以て之れを充実す。」
以上、作戦要務令より。

現在の自虐かつ平和教育では、精強な国民の軍隊は育成できない。
従って、
「軍の光輝ある歴史」そして「兵士の英雄的行為」を青少年に教え続けねばならない。
よって、教育改革こそ、軍備増強の基礎である。

子供達に、英雄的な先人の戦いと死を教えねばらない。
対馬の元に立ち向かって玉砕した宗助国、
その六十年後の楠正成、
そして、忠臣蔵、さらに、乃木希典山下奉文山口多聞らの戦い、
シンガポールインドネシアペリリュー島硫黄島の戦い、
さらに、陸海の特攻隊員達の遺書を教え続けねばならない。
戦後体制からの脱却とは、
戦後教育からの脱却である。

 

 

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