憤怒の思いを持て

平成30年11月24日(土)

先の「プーチンのレッテルの詐欺」に続いて、
さらに日露関係について記した。
重複もあるがご一読いただきたい。
歴史を見つめ、
腹の底に憤怒の思いを持つことも
「礼服を着た戦闘」ともいわれる外交には必要だ。 


平成十七年(二〇〇五年)五月二十七日は、
日露戦争において、対馬沖で、
ロシアのバルチック艦隊を、我が連合艦隊が殲滅した日本海海戦から百年であった。
その日以来、本年の五月二十七日に至るまで、
私は毎年、対馬の有志によって日本海海戦海域を見渡せる対馬北端の殿崎の丘で行われる日露戦没将兵の慰霊祭に出席して「海ゆかば」を歌っている。
 
この日本海海戦で生き残ったロシア海軍兵士のノビコフ・プリボイは、
ロシア革命後に「ツシマ」と題する日本海海戦史を書き、
第一回スターリン賞を受賞している。
プリボイは、自書「ツシマ」の冒頭に、レーニンの次の言葉を引用した。
ロシア海軍の敗北がこれほど容赦なき潰滅であろうとは誰一人考えていなかった。」
「我々の当面したものは、ただ軍事的な敗北というだけではなく、
専制政治の完全な軍事的倒壊であった。」
そして同書の最後を次のように結んでいる。
「ツシマ島には、水先案内が『驢馬の耳』と呼んでいる尖った裸の岩が、
二つに分かれて空高くそそり立っていた。
『驢馬の耳』を持ったこの島は、
今よりツアール政府、暗黒と無言の政権、
の不名誉を永劫に記念する記念碑となるであろう」。
この「ツシマ」の冒頭のレーニンの言葉と末尾の著者プリボイの言葉を観れば、
レーニンの、戦争から敗戦へ、敗戦から革命へという「敗戦革命論」は、
我が国が日露戦争帝政ロシアを打倒し、
そこからボルシェビキによるロシア革命がスタートした経験から生まれたのではないかと思う。

本年(平成三十年)十一月、
シンガポールで日露首脳会談が始まる直前に、
私は対馬の砲台跡のある上見坂の丘から、
眼下に浅茅湾を見下ろし、
左手にロシアの水先案内人が「驢馬の耳」と呼んだ嶺を眺めていた。
そこで、思ったことを次に記す。
 
ロシア民族は、十六世紀、モンゴル(タタール)のくびきから脱して
モスクワ大公国を建国して以来、絶え間なく東に向かって侵攻し、
清国との一八五八年のアイグン条約と一八六〇年の北京条約によって
ウスリー以東の沿海州を獲得して、
遂に西のバルト海から東の日本海にまたがるユーラシア大陸を支配する帝国となった。
この日本海に直面するロシアの西に広がる海の向こうには、
対馬から樺太に至る日本列島が横たわっていた。
左手を伸ばせば樺太に、右手を伸ばせば対馬に手が届く。

事実、ロシアは、無頼のコサックを使ってまず樺太のアニワ湾に上陸して
日本の運上屋を占拠して日本人を追放し砲台を築き(一八五三年)、
次に軍艦ポサドニック号を対馬浅茅湾に侵攻させて芋崎に入泊させ、
半年の間、兵舎を造って駐兵し、付近の村落を略奪した(一八六一年)。
この時、ロシア兵に立ち向かって殺された対馬藩士二人は靖国神社に祀られている。
 
我が国の歴史教科書は、
嘉永六年(一八五三年)のアメリカのペリ-来航しか教えない。
しかし、同じ年に、ロシアのプチャーチンが長崎に来航し、
ロシア人が武器を持って樺太に侵攻したのだ。
この樺太対馬の事態に対して、
我が国の徳川幕府は、
対馬のロシア軍艦をイギリスの圧力を借りて退去させることはできたが、
樺太に居座るロシアを退去させることはできなかった。

アメリカ大陸を西に向かって太平洋にでたアメリカと、
ユーラシア大陸を東に向かって太平洋に出たロシアと、
我が国は同時に直面したことを忘れてはならない。
そして、20世紀に入り、我が国は19世紀に同時に直面した
ロシア・アメリカと戦ったのである。

そこで、狭い「北方領土」だけを見るのではなく、
ロシアの建国以来の衝動ともいうべき東進拡大運動が、
十九世紀半ばに太平洋に直面してか
ら我が国周辺で如何に展開されたかを見ることにする。
 
まず、ロシアから見て東の海に南北に広がる樺太を含む日本列島を、
ロシアは如何に見たか。
それを端的に示すものが、
ロシア海軍軍令部の編纂した「一九〇四、五年露日海戦史」の記述である。
そこには、
極東でロシアが絶対優位権を確立せんと欲するならば、
「須く日本を撃破し、艦隊保持権を喪失せしめなければならない」と記され、
さらに、
対日戦争では朝鮮を占領し馬山浦を前進基地として
「日本人を撃破するのみにては不十分で、さらに之を殲滅せざるべからず」
と記されているのだ(平間洋一著「日露戦争が変えた世界史」)。
この恐るべきロシアの対日戦略は、
ロシアが始めて太平洋に直面して以来、一貫したものであり、
大東亜戦争後においても遂行された。
これが「北方領土問題」の生まれた所以だ。
これを観るだけでも、安倍総理の強調する「プーチンとの信頼関係」で
日露間の「北方領土問題」が解決するなど、
到底言えないことが分かるだろう。
プーチンKGBソビエト国家保安委員会)のエリートで
スターリンに近い男であるからだ。
北海道大学名誉教授の木村汎氏は、
平成三十年十一月二十二日の産経新聞朝刊の「正論」で
第二次世界大戦後の国際秩序を律する一連の基本的合意を
真っ向から踏みにじって省みようとしないのが、
スターリンと同じくプーチン氏と評さざるをえない。」
と書かれている。
木村先生と、プーチンに対する認識が一致して心強い。
 
まず、樺太
この北海道の北の広大な島の存在を、
我が国は奈良時代に既に認識していたことは明らかである。
多賀城陸奥国府に天平宝字六年(七六二年)に建てられた「多賀城の碑」には、
「京を去ること一千五百里」などと各地からの距離が刻されている。
そのなかに「靺鞨国界を去ること三千里」とあり、
この三千里は樺太北端から多賀城までの距離と一致する。
そして、十七世紀以来、樺太は日本領となっていた。
しかし、プチャーチン来日と同時期に樺太に上がってきてから
二十年の歴史しかないロシアに、
我が国は全樺太を明け渡すことになった(明治八年、一八七五年、千島樺太交換条約)。これ、日本外交の大敗北である。
以後、ロシアは、
前記「露日海戦史」の記述通り、日本を過小評価して
満州から朝鮮半島に進出して日本を「殲滅」せんとして、
日露戦争が勃発する。
しかし、国家の存亡をかけた決死の我が国の帝国陸海軍は、
ロシア軍を陸海で撃破して世界を驚愕させた。
そして、我が国は、明治三十八年九月の日露講和条約によって、
三十年前の明治八年に奪われた樺太の南半分の領土を回復した。
しかし、その四十年後の大東亜戦争最末期から、
スターリンは、日ソ中立条約を破って、
まず満州北朝鮮南樺太に侵攻し、
我が国がポツダム宣言を受諾して全前線において戦闘を停止し、
連合軍も戦闘を止めた後に、
樺太南部と千島に侵攻したのだ。
その時のスターリンの目標は、
北海道の北半分まで占領することであった。
 
昭和二十年八月十五日の終戦時には、
北千島には二万四千五百名の日本軍精鋭部隊が駐屯していた。
彼らは、大本営の戦闘行動停止の命に従って武装を解除し始めた。
しかし、八月十七日午後十一時三十五分、
カムチャッカ南端のロパトカ岬から突如ソ連軍が十三キロ南にある
占守島に砲撃を開始して上陸してきた。
日本軍は、敢然と直ちに武装を元に戻し迎撃態勢を整え、
上陸したソ連軍を浜に追い詰めた。
「戦車隊の神様」と呼ばれた戦車第十一連隊長池田末男大佐は、
戦車六十四両の精鋭を率いて出撃しソ連軍を撃破して戦死する。
さらにわが軍が攻撃を継続すれば、
追い詰めたソ連軍を殲滅できたところ、
第五方面軍樋口季一郞司令官の停戦命令により、
日本軍は戦いを停止してソ連軍に降伏した。

この占守島の戦闘で日本軍の死傷者は約六百名、
ソ連軍の死傷者は約三千名であった。
日本軍の大勝利である。
しかし、ソ連は戦闘を停止して多くのソ連兵の命を救った日本兵を、
最も過酷な地獄の収容所であるシベリアのマガダンに送ったのだ。
以後ソ連軍は、
八月三十一日に千島南端のウルップ島までを占領し、
北方領土は八月二十八日に択捉島
九月一日に国後・色丹
そして九月五日に歯舞群島を占領した。
降伏文書調印の九月二日の後にも、
ソ連軍は我が領土への侵攻を続けた。
しかし、占守島の戦闘における打撃によってスターリンは北海道侵攻を断念したのだ。
我々は、地獄のマガダン収容所で
無念の思いで知られることなく亡くなっていった
多くの日本軍勇者に深く感謝しなければならない。
同時に、おのれ卑劣な露助め、と思うべきだ。
 
さて、このロシア(ルーシーの皮を被ったタタール)が
奪った領土を如何にして返還させるのか、だ。
嘗て一度、このタタールが領土を手放したことがあった。
それは彼が、イギリス、フランス連合軍とクリミアで戦って疲弊した
クリミア戦争(一八五三年~五六年)の後、
金に困窮し、アラスカをアメリカに売却した時だ(一八六七年)。
よって、今再び、
ロシアを西のクリミア侵攻による制裁で徹底的に疲弊させれば、
樺太と千島を含めて取り戻せる道が開ける可能性がでてくる。
現在の、ウラジーミルちゃんのロシアに援助すれば
ロシアとの「信頼関係」が深まり、
そのうちかえしてくれるだろう、
そ~のうち、なんとかな~るだあ~ろう、
と、ボーッと期待する方策よりは可能性がある。
一九六八年、
自由化に向かうチェコプラハのバーツラフ広場に戦車を入れたソ連に対して、
プラハ市民が
「広場にソ連のサーカス団が来ている。一滴の水もやるな!」
と言った。これだ!
「クリミアに居座り、国後・択捉・歯舞・色丹に居座るロシアに、一滴の水もやるな!」

 

 

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