敵国ブレジネフ・プーチンのロシアと愛すべきロシア人と文学

令和1年10月2日(水)

前号の時事通信
「人類二千年の歴史の中に位置づけられる大東亜戦争の意義」
では、ロシアに付いて書いていないので、ここで書いておきたい。

前号で、フランスの政治思想学者であるアレクシス・トクビルが
「異なる地点から出発して共通の目標に向かって進む二つの民族がある」
としてアメリカとロシアを挙げ、両者を対比して次のように記していると書いた。
アメリカ人は自然の障害と戦う。
ロシア人は人間を征服するために戦う。
アメリカ人は荒野とバーバリズムと戦う。
ロシア人は武器を持って文明と戦う。
アメリカ人の征服は鋤を使って行うが、
ロシア人は剣を用いる。」
そこで、私は、
トクビルはアメリカに甘すぎるとして、
アメリカの西部開拓は、
銃を持ったインディアンの生命と肥沃な領地の略奪であり
西の金鉱を目指した侵略であった。その略奪と侵略を正当化したのは、
キリスト教マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)だと書いた。

とはいえ、アメリカの場合、
1620年の暮れ、
最初に、主にイギリスで迫害されていた非国教派のピューリタン達102人が、
新世界を求めてイギリスからメイフラワー号に乗り、
六十六日間の苦しい航海をして1620年の暮れに、
今のアメリカのマサチューセッツ州プリマスに上陸して入植したことが
アメリカ建国の物語の第一歩だ(America’s Hometown)。
それ故、彼らにとってそこから西に広がる未知のアメリカ大陸の大地は、
希望に満ちたフロンティアであり、
以後、多くの入植者を旧世界から続々と受け入れながら、
彼らは西に向かい、
多くの希望に満ちた「大草原の小さな家」の物語が生まれていく。
同時に、「いい人」ばかりが上陸してくるわけがなく、
しかも西に広がるフロンティアには何万年も前から住民がいるのだから、
いい人も山師も無頼者も、銃を持って自らを守り、銃を撃ちながら西に進んだのだ。
そして、銃を携行することは、アメリカ人の基本的人権となる。
合衆国憲法修正第二条(1791年)
「人民が武器を保蔵しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」
従って、彼らの言う「西部開拓」において、
銃をぶっ放して悪役のインディアンをやっつける痛快で明るいハッピーエンドの
「西部劇」が生まれた。しかし、二十世紀後半から、さすがのアメリカ人も、
無邪気(アメリカン・フール)な[西部劇]は作れなくなった。

ではロシアとは如何にして誕生したのか?
何故、
アメリカとほぼ同じ時にユーラシア大陸の東端に向かって進んだのか?
これは現在の対露外交においても重要なポイントである。
アメリカの西進と
ロシアの東進は、全く違う。

ロシア人が「ロシア人」であるのは、地政学的条件と歴史体験の所産である。
もともと、西方のルーシーと言われるノルマン系の人びとが東に移動し
東方の遊牧民であるスラブ族と混血してロシア人が生まれたと言われている。
彼らは、西方と東方の混血であることは確かだ。
従って、ロシア人自身も、またフランス人も、
ロシアをヨーロッパとは思っていない。
トルストイの「戦争と平和」に、
ナポレオン軍がロシアに侵入した時に、
「ヨーロッパの軍隊が初めてロシアの国境を越えた」
と書かれているし、
眼下にモスクワを見たナポレオンを
「ナポレオンは初めて東洋の都を眺めた」と書いてある。
ついでに指摘しておくが、
ヨーロッパ人(神聖ローマ帝国EU)は、
イギリスをヨーロッパとは思っていない。
従って、イギリスのEUからの離脱は歴史の必然だ。

さて、
ロシアの大地は限りなき平坦な平原と森林である。
ということは、
中央権力の強弱によって国境線(勢力範囲)が常に移動するということだ。
従って、常に東方からの外敵の侵入にさらされてきたロシアにおいては、
安定した存立を確保する為に、
強力な中央権力と強力な軍事力は強迫観念のように求められてきた。
よって、その時から現在のプーチンのロシアに至っても
「独裁者なきロシアなどあろうか」
という警告は真理である。
このロシアが、
十三世紀から十五世紀までの二百四十年間、
我が国では、鎌倉時代から戦国時代まで、
モンゴル・タタールの強権的支配下に置かれていたのだ。
それ故、ロシアには
ヨーロッパの近代化の基礎になるルネッサンス宗教改革もない。
その結果、ロシアは支配階級とコサックと農奴だけの国として十九世紀を迎える。
その暗黒のタタール支配下にあった時、
ロシア人は、支配者のタタールに取り入り、タタールの僕(しもべ)として
タタールの強権的手法で他のスラブ・ルーシー族を支配した。
従って、ロシア人は、今に至るまで
「ルーシーの皮をかぶったタタール」と言われる。
事実、レーニンスターリン、ブレジネフの顔を思い起こされよ、
彼らはルーシー・西洋ではなく、タタールである。
さて、
このモンゴル・タタールの支配から脱したロシアに、
織田信長と同世代のイワン4世(雷帝、1533年~84年)が出現し、
モスクワ・ロシアの初代ツァーリ(皇帝)となって、
かつてのロシアの支配者が来た東方への侵攻を開始するのだ。
アメリカの西進とは全く違う。
アメリカは、
フロンティアに入植して人生を築くことを目指す人々の西進と建国だった。
しかし、ロシアは、
イワン雷帝によって動員された専制強権のロシア的拡張本能の発露だった。
ロシアは、その歴史的体験から、
現状では安心し満足できないのだ。
彼らは、現状以上の安全を求めて支配空間を外に拡大し続けねば
安心できないのだ。

現大統領のプーチン
ウクライナの領土であるクリミア併合と
我が国の領土である国後島択捉島におけるミサイル基地建設は、
まさに、ロシアの、この衝動に基づく行動である。
プーチンは、北海道併呑も夢見ているはずだ!

さて、そのイワン雷帝から開始されたロシアの東進スピードは次の通り。

1587年、1592年、
ロシアは、ウラル山脈東側と西側のトボルスクとペルミに砦を築き町を造り、
ウラル山脈を越えて東進した。
1632年ヤクーツク(シベリアのバイカル湖東北)に拠点を建設。
さらに
1689年の清とのネルチンスク条約
黒竜江と外興安嶺の線をロシアの国境と定める。
次に、百七十年後の
1858年のアイグン条約、1860年の北京条約で
ウスリー川以東の沿海州を獲得して
ハバロフスクそしてウラジオストックを得て、
ここに、ロシアは、
西のバルト海から東の日本海に達するユーラシア大陸を支配する大帝国となった。
なお、この時ロシアが獲得して命名した街、
ウラジオストク、の名は、
ウラジー(征服)とボストーク(東)からなる「東を征服せよ」という意味である。
他方、ヤクーツク建設からの百七十年の間、
ネルチンスク条約によって南下を阻止されていたロシアは、
活路を北に求め、
カムチャッカ半島及びアラスカへの進出を続けていた。
これが日露の初めての衝突をもたらす。
この時期にロシアの尖兵は、カザックの首領アトラーソフ。
1711年、ロシア探検隊は、
カムチャッカから海を渡って千島最北端の占守島等を踏査して
千島の情況をヤクーツクの政庁に報告した。これがロシアの初めての千島渡来だ。
そして、ロシアは
ウルップ以北の千島領有を確実なものにしていくと同時に、
択捉以南にある日本への関心を深めていく。
以後の我が国とロシアの接触は以下の通り。

①ロシアのラクスマンが漂流民送還を名目に根室に渡来した。
②1804年、レザノフが長崎に渡来して通商を求める。
 日本側に拒否されたレザノフは、
 部下に命じて樺太や択捉の日本番所を襲う。
③1807年、幕府は北海道と樺太を直轄地とした。
 間宮林蔵樺太調査を実施した。
④1853年、ロシア、樺太アニワ湾に上陸して日本の運上所を占拠して砲台を築く
⑤1855年(安政元年)日露友好条約(下田条約)、
 日本は択捉、国後を領有し、ロシアはウルップ以北の千島領有。
 樺太は日露雑居地となる。
 二年前のロシアの樺太侵入は、
 この日露条約によって日本からの樺太の日露雑居地獲得を狙ったものである。
 条約交渉で日露雑居地となったことは、大きな敗北というべきだ。
⑥1861年、ロシア軍艦ポサドニック号、対馬の芋崎に侵入して停泊。
 そして、兵を上陸させて井戸を掘り小屋を建てて駐兵する。
 抗議に向かった対馬藩士二人を射殺する。
 このロシアの行動は、前年の清との北京条約によって
 対馬北方の日本海に面するウラジオストックを獲得したことと連動している。
⑦1875年(明治8年)千島樺太交換条約、
 我が国は、十七世紀以来、二百年間日本領としてきた樺太を放棄。
 これに対して、ロシアの樺太進出はたった20年に過ぎない。
 外務卿の副島種臣樺太を確保する為に奮闘するも、 
 北海道開拓次官黒田清隆は、
 樺太に経済価値なしとの建白書を政府に提出した。
 黒田清隆の認識不足である。
 日本外交痛恨の大敗北!

以上の通り、ロシアの特徴は、
我が国との接触開始から一貫して我が国の領域を侵すために接触してきたということだ。
これが、通商を求めてきたアメリカやイギリスと全く異なる点である。
そして、このロシアとの領土問題は、
1711年のロシアの千島来航以来、現在まで続いている!

また、以上の十八世紀後半から十九世紀後半までの百余年にわたる日露交渉しにおいても、
ロシアは獲得した領域では安心できず、さらに外側に領域を拡張しようとする
前記のロシア特有の「運動」が止まっていないことは明らかである。
そして、それが、
第二次世界大戦終結に際し露骨に開始され、
現在においてもプーチンによって、
国後・択捉でのミサイル基地建設によって続けられているのだ。
従って、ここではっきり言っておく。
日本人は安心して忘れているが、実は北海道が危ないのだ、それがロシアだと。
さらに、
ロシアが1904年の日露戦争前に、
既に対日戦争を決意していたことと、
その動機を、我々が忘れないことが必要である。
何故なら、
ウラジオストックを海軍基地として太平洋に艦隊を遊弋させ、
中共海軍と定期的に日本を南北から包囲するように海軍合同演習を実施している
ロシア大統領のプーチンは、
今、日露戦争を決意したロシア海軍のことを忘れず、
彼らの思いを自身の思いとしているからだ。
ロシアとは、プーチンとは、そういう民族である。
以下、
日露戦争が変えた世界史」平間洋一著、芙蓉書房出版、より。

ロシア海軍編纂「千九百四、五年露日海戦史」には次の通り記載がある。
「極東でロシアが絶対的優位権を確立せんと欲するならば、
須く日本を撃破して艦隊保持権を喪失せしめねばならない。」
「対日戦争では朝鮮を占領し、馬山浦を前進基地として、
日本人を撃破するのみにては不十分で、更にこれを殲滅しなければならない。」

また本稿は、
一九七三年のモスクワにおける田中・ブレジネフ日ソ首脳会談において、
「日ソ間の未解決の諸問題」
の中に、
「四つの島」即ち「北方領土」が入っているか否かに関し、粘りに粘って、
ブレジネフの
「ダー(そうだ)」
という歴史的答えを引き出した
外務省東欧第一課長(ソ連担当)新井弘一氏の
「モスクワ・ベルリン・東京  一外交官の証言」時事通信社
という著書から学ばせて戴き作成した。

なお、私は、
ロシアの権力、ロシアの軍隊ではなく、
ロシアの民衆、ロシアの人々に対して何らの悪意を抱いているものではない。
ロシア文学は、明治以降の日本人が一番多く読んだ外国文学であり、
私も、ロシアの文学を愛する。
学生時代、法学部の勝田吉太郎教授の、ソビエト法の講義に出ていた。
何を講義されたのか、さっぱり覚えていない。
しかし、ただ、一つだけ、昨日のように覚えている。
それは、
勝田教授が、
ドストエフスキーの「罪と罰」の話をしていたときのことだ。
青春を回顧するような顔になって教授は言った。
あー、あの、娘、ソーニャ!
ソーニャなあ、
僕も、一度でいいから、なあ、
あのソーニャのような娼婦に会いたいよ!

その時、僕は、ロシア語を学んでいて、
レルモンフの「現在の英雄」(ゲローイ ナーシェボ ブレーメニー)を
原書で読んでいた。
また、「カラマーゾフの兄弟」の
ドミートリー・カラマーゾフ(ミーチャ)に自分は似ているのではないかと思っていた。
そのような時、母の友人で、母と同じ明治生まれの
大正時代にドストエフスキーを読んだという婦人と会って食事をした。
一杯飲んで過激なことをしゃべっている僕に彼女は言った。
「あなた、ミーチャみたいねえ」
この情景も忘れられない。