日本人の魂を揺さぶる「海道東征」と「海ゆかば」の公演

平成30年2月8日(木)

日本人が日本人である限り、楠正成は忘れられることなく甦り続ける。
特に、国家に危機が迫るとき、
日本人は、幕末でも、日清日露戦役でも、大東亜戦争においても、
楠正成を思い、正成のように天皇と国家の為に力を尽くそうと奮い立ってきた。
楠正成の本拠地である千早赤坂の金剛山を東方に眺める大阪和泉の信太山に駐屯する
戦前は陸軍歩兵第三十七連隊、現在は陸上自衛隊第三十七普通科連隊のマークは、
戦前戦後一貫して楠正成の旗印の、「菊水」である。
では、一三三六年、湊川で朝敵の汚名を着せられて戦死した楠正成のことを、
我が国の一般庶民までが忠臣として知るようになり、
危機において日本人が楠正成を思って奮い立つようになったのは
何時からで、その切っ掛けは何であろうか。
私は、それを、
正成討ち死にから三百五十六年を経た元禄五年(一六九二年)、
水戸の徳川光圀によって正成戦死の地である湊川
「嗚呼忠臣楠子之墓」
という石碑が建てられたこと、即ち、湊川建碑、であろうか、と思う。
ここから、正成は弟とともに死に臨んで七生報國と念じたとおり甦り始めた。
この建碑から十年後に
大石内蔵助赤穂浪士が足利の本家筋の吉良上野介の首を討ち取ったとき、
庶民は次のように謳った。
   楠のいま大石となりにけりなほも朽ちせぬ忠孝をなす
つまり人々は、楠正成が大石内蔵助となって甦り足利を討ち取って
主君に対する忠孝をなしたと思ったのだ。
これは、楠正成の忠孝の思いと生涯が、既に庶民に至る迄知られていたことを示している。
西国街道沿いに建てられた一つの石碑が、
建てた徳川光圀の思いを遙かに超えて、我が国の歴史を創造する日本人の
「国民精神」・「士魂」を育む大きな切っ掛けとなったといえる。

では、戦後体制から脱却し、
本来の日本を取り戻して、
迫りつつある国難を克服しなければならない現在、
これからの我が国の歴史を切り開く「湊川建碑」の如き切っ掛けは何であろうか。
その時は気付かなくとも、
後に振り返れば発火点であったと思えるものは何であろうか。
私は、それを、産経新聞による
交聲曲「海道東征」と「海ゆかば
の復活であろうかと思っている。

二月二日午後六時半から、大阪ザ・シンフォニーホールで、
産経新聞が主催して交聲曲「海道東征」が公演された。
管弦楽は、  大阪フィルハーモニー交響楽団
合唱は、   大阪フィルハーモニー合唱団
児童合唱は、 大阪すみよし少年少女合唱団
そしてソロは、テノールバリトン、ソプラノとアルト

交聲曲「海道東征」は、
カムヤマトイワレヒコ(神倭磐余彦命)が天孫降臨以来の悲願である
国土統一を宣言して兄弟達と共に日向国から東征へと船出し、
度重なる苦難のなかで三人の兄を失いながら、
八咫烏に先導されて遂に大和盆地に至り、
橿原の地を宮と定めて神武天皇に即位するまでの物語を、
神武天皇の即位から二千六百年の節目となる皇紀二六〇〇年(昭和十五年)を期して、
晩年の北原白秋が作詞し、
その詩の荘厳さに感動した信時潔が雄渾な交聲曲として作曲し、
同年十一月二十一日に、東京音楽学校奏楽堂で初披露され、
次に日比谷公会堂で演奏され、全国にラジオ中継され大きな感動を与えた。
その曲目は次の通り、
勇壮な神武東征の全八章の物語で、
男独聲もしくは女独聲と続く合唱で組み立てられている。
第一章「高千穂」、第二章「大和思慕」、
第三章「御船出」、第四章「御船謡」
第五章「速吸うと菟狭」、第六章「海道回顧」、
第七章「白肩の津上陸」、第八章「天業恢弘」

しかし、
戦後は敗戦による被占領状態のなかで、
占領軍の意向によって我が国の神話を教えることが禁じられ、
「海道東征」の公演も出来なくなり、そして忘れられた。
しかし、産経新聞は、
その紙面において、我が国の「神話」の連載を始め、
次に「戦後71年 楠木正成考 『公』を忘れた日本人へ」を連載する(現在継続中)。そして、遂に戦後七十年を経た三年前の暮れ、
産経新聞は、大阪ザ・シンフォニーホールにおいて
戦後始めて交聲曲「海道東征」を公演した。
この公演では、「海道東征」の次に、
同じく信時潔作曲の「海ゆかば」が歌われた。
その歌は、とうてい一度で済むはずがない。
最後は、ザ・シンフォニーホールに集う全聴衆が立ち上がって
オーケストラと合唱団とともに「海ゆかば」を歌ったのだ。
    海ゆかば  水漬く屍  
    山行かば  草生す屍
    大君の  辺にこそ死なめ
    かへりみはせじ  
皆、涙を流して歌っていた。
この時、信時潔の「海道東征」と「海ゆかば」の旋律が魂を揺さぶって、
我が国の「国民精神」と「士魂」の甦りを促しているのを全身で感じた。

そして、産経新聞は、昨年も本年二月二日も、
「海道東征」と「海ゆかば」の公演を主催したのである。
よって、
元禄五年の徳川光圀湊川建碑が後世に及ぼした同じ偉大な精神と魂への作用を
平成の御代の最後に、
産経新聞の「海道東征」と「海ゆかば」の公演が果たすと実感する。

 

 

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